「写真の少女は私です」。終戦後に旧満州(現・中国東北部)から引き揚げた人たちを撮影した写真を本紙が8月15日の紙面に掲載すると、川崎市高津区在住の清水満子さん(84)が名乗り出た。当時6歳。撮影時の状況について「引き揚げ船から下りると、(シラミ駆除の)DDTを体中にまかれ、肩からむしろを背負わされた」と振り返った。(佐藤圭)

満州からの引き揚げ 関東軍による1931年の満州事変を機に日本は満州を占領し、翌32年に傀儡(かいらい)国家「満州国」建国を宣言した。同国は45年8月のソ連軍侵攻で崩壊。侵攻時、約155万人の日本人が満州にいたとされるが、国家の保護が失われ、帰国(引き揚げ)は困難を極めた。シベリア抑留を余儀なくされた人や、中国に残留した人も多い。

◆引き揚げの拠点だった舞鶴港で撮影か

終戦後に旧満州(現・中国東北部)から引き揚げた人たちの写真を掲載した2024年8月15日の東京新聞朝刊

 写真は1946年6〜7月ごろ、京都府舞鶴市の舞鶴港で撮影されたとみられる。共同通信社が外務省から提供され、2000年に本紙など加盟各社に配信。本紙は今年の終戦の日、朝刊社説・発言面に掲載した。外務省は、撮影者や現在の所蔵先などについて「確認できない」としている。  舞鶴港には終戦後、引き揚げ者の帰国手続きなどを担う旧厚生省引揚援護局が設けられ、最後の引き揚げ船が入港した58年までの13年間、約66万人が同港経由で故郷に戻った。

弟と写真に収まる旧満州時代の清水満子さん=清水さん提供

 清水さんは母と祖母、二つ下の弟とともに、舞鶴港にたどり着いた。写真には少女数人と大人の男性1人が写っており、むしろにくるまった左端の少女が清水さんだという。「写真を見て、すぐに自分だと気付いた。付き添ってくれた男性が横に写っていたからです」と興奮気味に語る。自身だと確定できる証拠はないが、手元に保管していた幼いころの写真ともよく似ていたし、当時の記憶も鮮明だ。

◆隣に写る男性は?

 清水さんがDDTで消毒されて宿舎まで移動する間、男性は終始付き添ってくれた。旧満州生まれの清水さんが故国の土地を踏んだのはこの時が初めて。しかし、幼い清水さんにそうした感慨はなく、男性の姿が強く印象に残った。「ズボンを膝までめくっていて、どうしてこんな格好をしているのかと思った」  男性の素性について「ボランティアでは」と推測するが、詳しいことは分かっていない。舞鶴引揚記念館(舞鶴市)の担当者は「腕章のようなものが見受けられるが、援護局職員の腕章と同じものかは判別できない。学生団体などのボランティア活動はあったが、服装が違う」と指摘する。

◆亡くなった人は海に捨てられた」

 清水さんの父は、日本の国策会社・南満州鉄道(満鉄)で働いていたが、終戦約1年前の1944年7月に病死。母が満鉄独身寮の寮母の職に就き、祖母や2人の子どもを養った。

旧満州時代の写真を見ながら引き揚げ体験を語る清水満子さん=川崎市高津区で

 ソ連軍の侵攻後、一家4人は満鉄の社宅などを転々とした。多くの人が栄養失調などで命を落とす中、引き揚げ船が出発する葫蘆(ころ)島(現遼寧省)を目指した。「足が棒のようになっても歩いた。夜は大陸の寒さが身に染みた」  1946年5月末、ようやく引き揚げ船で中国を出発したが、船内も食べ物が乏しかった。「亡くなった人は海に捨てられた。あの光景は今も忘れられない」

◆「私たち一家が生き残れたのは運が良かっただけ」

 帰国後は、母の実家があった熊本県球磨村で暮らし、中学卒業後、准看護学校を経て、21歳の時に上京。65歳まで看護師を続けた。  引き揚げ体験を友人らに語ることはほとんどない。それでも時折、新聞に体験を投書してきたのは「戦争の悲惨を次の世代に伝えたい」と感じるからだ。  「私たち一家が生き残れたのは運が良かっただけ。たくさんの人が日本に帰れずに死んでいった。戦争は絶対にダメです」 

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