パリパラリンピック柔道女子57キロ級、軽い視覚障害のクラスで、愛媛県松山市の廣瀬順子選手が、女子柔道では日本初の金メダルを獲得しました。
女子柔道初の快挙
2大会ぶりのメダル獲得を目指す廣瀬順子選手。コーチを務める夫の悠(はるか)さんも見つめる中、初戦の準々決勝でアルゼンチン代表の選手と対戦し、内股で一本勝ちをおさめます。
続く準決勝、前回大会はここで悔し涙を飲んだ廣瀬選手は、カザフスタン代表の選手相手に、悠さんと一緒に磨いてきた大内刈りで一本を決め、銀メダル以上を確定させます。
そして迎えた決勝戦。相手は世界ランキング1位、ウズベキスタン代表・ホジャエワ選手と対戦。一進一退の攻防が続きましたが、試合開始から2分30秒、体落としで一本勝ち。パラリンピックの女子柔道では、日本初の金メダル獲得です。
廣瀬順子選手
「試合に向けて不安な気持ちがあったんですけど、自分の柔道がしっかりできて良かったです。東京パラリンピックで負けてしまって悔しくて、なかなか柔道に向けてやる気が出ない日も多かったんですけど、たくさんの人に支えてもらって頑張ることができました」
――夫・悠さんについて
「家族としてもコーチとしても一番私を理解してそばで見ていてくれたので、すごく感謝しています」
――表彰式で後ろから悠さんが写真を撮って見ていた
「振り向こうかなと思ったんですけど、恥ずかしくてできなかったです」
一方、夫の悠さんも喜びを隠しきれません。
廣瀬悠さん
「今回優勝出来なかったら全部自分のせいだと思っていたので、試合の結果にしても、最後にしても、結果を出してくれた奥さんに感謝しかないし、感動させてくれてありがたい」
大学時代に膠原病を患い…合併症で視野の大部分を失う
山口県出身の廣瀬順子選手は、小学生の時に柔道を始め、高校時代はインターハイにも出場。しかし大学時代、19歳の時に患った膠原病(こうげんびょう)の合併症の影響で、視野の大部分を失います。
廣瀬順子選手('20年取材時)
「病気が治って退院する時にお医者さんに『もう視力戻らないよ』って言われたが、その頃には何となく自分の中で心の準備ができていたし、落ち込んでいる時間がもったいないと思って前向きに過ごした」
失意の中、一時、畳から離れた時期もありましたが、順子選手は前向きにブランクを乗り越え、視覚障害者柔道で競技に復帰します。
同じ視覚障害者柔道選手、悠さんと結婚
そして2015年、同じ視覚障害者柔道選手で、パラリンピック北京大会代表だった悠さんと結婚。
廣瀬順子選手('20年取材時)
「悠さんは最初に会った時と全然変わらないですし、面白くて優しいし、すごく指導も受け入れやすくて頼りになります」
そして翌2016年には夫婦揃ってリオデジャネイロ大会に出場し、順子選手は銅メダルを獲得しました。
ところが、そのパラリンピック日本女子選手初の快挙が、逆に順子選手を苦しめていました。
廣瀬順子選手('20年取材時)
「次の試合勝たなければいけないという、自分の中で考えすぎてしまうというか、そういった部分もありましたし、一時期は柔道が楽しくないというような状態でした」
そんな時、順子選手を救ったのが夫、悠さんの言葉でした。
苦しむ順子さんに、夫の悠さんがかけた言葉
廣瀬順子選手('20年取材時)
「負けたときに悠さんから『負けて周りになんと言われても死ぬわけじゃないんだから、もう少し気楽にやりなさい』というふうにアドバイスをもらって」
楽しく柔道を―。
この言葉を大切にしてきた2人は、夫婦として、また選手とコーチとして、まさに二人三脚で技と心を磨き続けてきました。
そしてパラリンピック東京大会の3位決定戦敗退から3年、順子選手はパリ大会で躍動。柔道、日本女子選手初の金メダルに輝きました。
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