能登半島地震で、大きな被害を受けた石川県輪島市町野町。国の重要文化財である「上時国家(かみときくにけ)住宅」は、主屋が倒壊しました。復旧に係る金額は、少なくとも10億円以上とみられます。二十五代、800年余りにわたって紡いできた歴史・文化を守りたい当主の思いを取材しました。

時国家のルーツは、「平家にあらずんば、人にあらず」で知られる平時忠にさかのぼります。時忠は、平清盛の義理の弟にあたり、平家第一の実力者、権勢をふるい栄華を極めました。

時忠は、壇ノ浦の戦いの後に捕らえられ、現在の珠洲市へ流されました。その約3年後に没しましたが、息子たちは、追及を逃れるため、姓を「時国(ときくに)」と改め、珠洲市と隣り合う現在の輪島市町野町へ居を移しました。その後分家し、上時国家、下時国家に分かれました。上時国家は、江戸時代には、天領(幕府直轄地)の大庄屋を務め苗字帯刀を許され、農業のほか製塩、そして船5そうを所有し、海運も手掛けていました。

上時国家住宅 MROライブラリー映像より

珠洲市との境目にある観光名所・輪島市の曽々木海岸から、南へ1キロほど行った輪島市町野町の山裾の高台に「上時国家住宅」はあります。かやぶき屋根、入母屋造りの建物は、江戸末期に建てられたものとされ、高さは、18メートル(高さ5階建てのビル相当)。国の重要文化財登録の際には「近世木造民家の1つの到達点を示す」と評されました。巨大で、内部は手の込んだ造りが特徴です。

「大納言の格式」加賀藩主も入るのを遠慮した逸話

「上時国家住宅」で目を引くのは、御前の間。公家書院造りで、金で縁取った格子天井、欄間は透かし彫り、柱は漆が塗られ、贅を尽くした作りとなっています。

この部屋は、通称「大納言の間」。前田家十三代藩主・斉泰(なりやす)が訪ねた際に自らの官位が中納言であったため、天井に紙を張り格式を下げてから入った逸話が残され、格式の高さを今に伝えています。 ※時忠は大納言。

御前の間(大納言の間)

上時国家は長年、奥能登の観光名所として一般公開されていました。特に1960年代は、「最後の秘境」「陸の孤島」として注目されたいわゆる「能登観光ブーム」で、毎日大型観光バスが止まり、定番スポットの1つでしたが、運営困難を理由に2023年8月で閉鎖しました。

歴史ある風景は、地震で一変

平時忠の直系子孫で、上時国家の二十五代当主・時国健太郎さん(73)は、地震発生当時、金沢市の自宅にいました。

上時国家二十五代当主・時国健太郎さん
「グーグルアースのリアルタイム検索で空から見る限り、建物がちょっとずれたかのように見えた。2007年の地震でも被害がなかったので、最初は潰れているとまで思わなかった。」

1月9日、時国さんの弟が、どうにか「上時国家住宅」にたどり着くと、歴代の当主が心血を注いで維持管理に努めてきた200年近い歴史のある建物は倒壊、風景は一変していました。

1/9撮影 写真提供:時国健太郎さん

1階部分は押しつぶされ、主屋と納屋、米蔵も被害を受けたほか、珠洲市にある先祖の時忠の墓も行くことが出来ません。

古文書3万点、調度品が屋根の下敷きに 被害の実態つかめず

被害にあったのは建物だけではありません。所蔵品は、古文書だけで3万点以上、その他様々な調度品があります。地震がもたらした被害の大きさにショックを隠せません。

平家の紋「丸に揚羽蝶」があしらわれたふすま MROアーカイブ映像より

時国健太郎さん
「中が、のぞけないんで、どの程度被害があってどの程度復元可能かっていうのは、今の時点ではわからないんです。奥能登全体で公費解体も本当に危険なところから行われますし、文化財のところに手に回ってくるかっていうと、回ってこない部分もありますし、住民の生活の復旧や支援とかにやっぱり行政がかかりきりになってる部分もありますよね。現地に大工もいないし、解体業者もそんなにいないし、いるとしても、わずかな人数で、今現在も倒壊家屋の処理に当たってるわけですから。」

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