戦争は戦地に赴く人だけでなく、国内にいた人々の生活も容赦なく破壊しました。
終戦79年、戦争を自らの体験として次の世代に伝えられる人が減るなか、戦争とともに青春時代を歩んだという浜田市の女性が、当時の日常を語ってくれました。

島根県浜田市にある理容店「ヘアーサロンぬのだ」。


創業101年のこの店に長年立ち続けているのが、布田一枝さん・97歳です。

学生時代の思い出は戦争に関することばかり。
青春時代のほぼ全てが戦争と隣り合わせだったと当時を振り返ります。

▼暑い・寒いは禁句「ドレミファソラシド」は「ハニホヘトイロハ」にー

布田一枝さん(97)
「千人針といって手ぬぐいみたいな長さで、千個丸がしてあるんです。それを止め結びをするんですよね。3回だったら、『死線までいかん』5回だったら『死線を越える』死を越えるいうて、大抵5回まわしよった」


できあがった「千人針」は、兵士が銃弾よけのお守りとしてお腹に巻くなどしました。

布田一枝さん
「寅年の人はね自分の年の数だけ縫えるんですよ。『虎は千里行って千里帰る』でも、私は兎年なんですよ。
同級生はみんな寅年で…いいなぁ友達はお国のためにいっぱい得しよるんだ思いましたね」

戦地の兵隊のこと思い、暑い・寒いはもちろん禁句。
英語も使ってはいけなかったため、音楽の授業では「ドレミファソラシド」の代わりに「ハニホヘトイロハ」と言っていたそうです。

▼おしゃれはできず…クリームの代わりに牛乳瓶のふたの油を顔にぬっていたー

女学校に進学した布田さん。勉強は毎日1~2時間程度で、それ以外の時間は戦死者の家や出征軍人の家に行き、勤労奉仕として麦刈りや芋ほりに励みました。

布田一枝さん
「物資はなくなるし、今こうやっていっぱい使えるってティッシュなんかも最近できたんですよ。生理用品もないでしょう。

女学校で男の先生がお前たちは紙を使うのに、こうしたら破れるから、こうしてクシャクシャにして広げて、何回か取り返すうちに柔らかくなるから柔らかくなったのを使えと朝礼のときに話されて、あれが忘れられんのですがね」


女学校の廊下には、生理用品の代わりに当てていたクシャクシャの新聞紙が落ちていることも珍しくありませんでした。

年頃ですが、おしゃれはできず、牛乳瓶のふたについていた油を顔につけることが、唯一のおしゃれだったと話します。

当時は紙蓋の裏についていた油を顔に塗っていたー


布田一枝さん
「クリーム一つないんです。だから、牛乳瓶の蓋を開けると、蓋に油がついたんですよ。それをとってつけるのが一つのおしゃれ。他の兄弟がとったら嫌だから早く起きて、玄関にすぐ行って、牛乳瓶の蓋を取ってつけていました」

▼配給係では母乳の出ない母親から泣いて助けをもとめられたー

卒業後は役場で配給係を勤めました。
そこでは、栄養失調で母乳が出ない母親から、「赤ちゃんが寝てくれない」と泣いて助けを求められることもありました。

布田一枝さん
「少し空き地があると、畑にして大豆とか芋とか食べるものを作らんといけん。
お母さん連中も一生懸命、朝から晩まで働くからお乳も出ないんですよ。
食べ物も少ないし、栄養失調ですよね。だから自分の配給の米を少しずつ削って、それを粉にして、小さい鍋でドロドロにといて、赤ちゃんに食べさせていました」

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