きょう終戦から79年を迎えました。
今から80年前の太平洋戦争中に伊予灘沖で沈没し、その後、引き揚げられた、旧日本海軍の潜水艦。
えい航された先の興居島で、その様子を目撃した住人から、話を聞くことができました。

愛媛県松山市の沖合いに浮かぶ興居島(ごごしま)。
海岸線に沿って走る道の片隅に慰霊碑があります。

石碑に刻まれた「伊号(いごう)第三十三潜水艦」の文字。
終戦が近づいた昭和19年、1944年6月13日、試運転中の事故により、伊予灘沖に沈みました。

例年この場所では、地元の住人が中心となり、慰霊式が執り行われてきましたが、最近は、参加する人の数も減少傾向ということです。

(地元の住人)
「ここへ来る人も部落(集落)の人くらい、歳を取った人も多いので」
「80年目だから、大勢来るのかと思った」

参加者のひとり、福島ツネミさん90歳。
興居島と共に、歳を重ねてきました。
毎年、慰霊式には欠かさず参加するといいます。

(福島ツネミさん)
「理由はね、それは、私たちは戦争の時分を知っているので、だから死んだ人が愛おしいと思う、やっぱり」

戦時中に事故で沈没した「伊号第三十三潜水艦」は、その9年後の1953年に引き上げられた後、この興居島にえい航され、慰霊碑の前の海に止め置かれました。
福島さんら地元の住人は、目撃した当時の様子を鮮明に記憶していました。

(福島さん)
「22、23歳だった。ここにつけていた。もう『わやくちゃ』よ、外面見られたものではなかった。いっぱいカキがついて」

(地元の男性)
「けど潜望鏡だけは、ぴかぴか光っていた」

(福島さん)
「(潜水艦の)ハッチが開いていない場所があって。髪がもうみんな(乗組員の)若い衆の髪が赤くなっていて…。ハッチを開けた作業員が倒れたと聞いた」

(地元の男性)
「そのままだった」
(福島ツネミさん)
「髪が赤くなって、かわいそうやった」

潜水艦で亡くなった乗組員の遺体は、興居島の海岸で、荼毘(だび)に付されました。

福島さんの自宅には、興居島沖に止め置かれた潜水艦を撮影した写真も残されていました。

(福島さん)
「これ見て。これ。潜水艦。慰霊碑がある沖」

当時、職場の同僚数人と、潜水艦の目の前まで船で乗り付け、その迫力に圧倒されたと振り返ります。

(福島さん)
「見た時はびっくりした。うわーこんな大きなものが、よく上がったものだなと思った」

長く続いた戦争の傷が、ようやく癒えようとしていた71年前の7月。
松山市の小さな島に、まるで亡霊のように現れた旧日本海軍の巨大な潜水艦。
その姿は、島に暮らす多くの人たちの記憶に、深く刻み込まれました。

しかし時の流れは、それをも風化させようとしています。

(福島さん)
「もう知っている人はいない。60年も70年も前のこと」
(地元の女性)
「6月13日は慰霊碑を参るというだけで…。うちらの子が、慰霊式をしなくなったら、もう無くなる」

この夏、終戦から79年を迎えます。

当時を知る人たちの声を聞くことが難しくなる中、その記憶を失うことなく、いかに次の世代へと語り継いでいくのか。

穏やかな伊予灘を見つめて立つ石碑が、今を生きる我々に問いかけます。

  ◇  ◇

※記者が「伊号第三十三潜水艦」について知ったのは高校生の時、小説家・吉村昭氏の著書「総員起シ」を読んだことがきっかけでした。沈没から9年を経て引き揚げられた潜水艦の一部区画は浸水を免れ、事故発生直後の状況そのままに発見されたという衝撃的な内容の作品でした。
それから20年以上が経ち、愛媛に転居した私は、不思議な縁のようなものを感じて、この取材に当たりました。貴重な資料などご提供頂きました皆様に感謝申し上げます。

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