8月15日は終戦の日です。東京に生まれ、現在は宮城県大崎市に住む96歳の男性は、10万人の命が奪われた東京大空襲や終戦を迎えた17歳の夏の日のことをいまも鮮明に覚えています。あれから79年、貴重な証言です。

佐藤守良さん:
「そうしたらその時「ガー」って。(B29の)編隊から爆弾が落ちてきた。みんな飛行機雲を引いている、飛行機雲みたいに白く。空を見上げたら爆弾が空いっぱいに真っ白く尾を引いて、飛行機雲をひいて落下してくるのが分かる」

2024年5月に96歳を迎えた大崎市鹿島台の佐藤守良さん。現在の東京・新宿区に生まれ、旧制中学校に通っていた16歳の時に東京大空襲を経験しました。

佐藤守良さん:「東京は一晩で丸焼けになった。風が何しろひどかった」

太平洋戦争末期の1945年3月10日、アメリカ軍のB29爆撃機およそ300機が東京の上空に飛来。これまでにない低空飛行で大量の焼夷弾を投下しました。

佐藤守良さん:
「玄関に出て道路に出たらこんなに大きい(B29)が、うちの方に向かってきて右旋回して。もう魔物のように見えた。銀翼が赤く炎に反射して」

炎は一夜にして東京を焼き尽くし、死者は10万人に上りました。

一夜で壊滅した街…いまも脳裏に焼き付く惨状

この日の空襲では佐藤さん一家に被害はなかったものの、壊滅した街で目の当たりにした光景は今も脳裏に焼き付いています。

佐藤守良さん:
「穴が掘ってあった。そこに人を満載したトラックが来た。真っ黒く焼けた、男だか女だかわからないような。山のように積んで来たのを、兵隊たちが人をおろし始めた。見ていられなかった。きのうまで和やかに暮らしていた人たちが一晩でこうなったかと思うと、見ていられなかった」

その後の空襲で自宅が焼かれ、家族で葛飾区に移住。佐藤さんは、1945年の5月、日本海軍の事務などを担う海軍省に就職しました。

佐藤守良さん:
「海軍の特攻兵器のいろいろな文書を扱う部局。実際の書類は私たちは見ない。偉い人たちだけ。『受けましたよ』ということを記録しておく」

8月15日、佐藤さんは海軍省の中庭で拡声器の前に整列するよう言われました。

拡声器から聞こえてきたのは…「天皇陛下の言葉」

79年前の8月15日は暑い日でした。正午、海軍省の中庭の拡声器から聞こえてきたのは「玉音放送」でした。

佐藤守良さん:
「正午になったら時報が鳴った『ただいまから天皇陛下のご放送があります』(最初は何のことかわからなかった。『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』っていう天皇陛下のお言葉で、これは降伏したんだなと思った。そのときに初めてピンときた。でも国が降伏するというのがどういうものか分からなかった。少し経ってから、これから先どうなるのかと思った」

戦時下の東京で激動の少年時代を過ごした佐藤さん。終戦後、父の実家の宮城県大崎市鹿島台に移り住みます。以来、60代までコメ農家として働き、96歳になった今は妻と静かに暮らしています。

佐藤守良さん:
「こっちに来た最初は、東京の焼け野原から来たから、田んぼの緑はとてもきれいに見えた。美しくきれいだった」

今も鮮明に蘇る79年前のあの日の記憶。改めて平和への思いを強くします。

佐藤守良さん:
「戦争は何もかも壊滅しますからね。希望も何もないでしょ。戦争は絶対にやってはダメだと、全ての国と仲良くしなければならないということを、声を大きくして叫びたい」

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