【少女からの戦地へ慰問の手紙 書かれていた戦時中の暮らし 前編/後編の後編】
太平洋戦争のさなか、1943年、昭和18年に山梨県南アルプス市出身の男性がアリューシャン列島の戦地で書いた従軍日誌。
=志村太郎技手の従軍日誌=
「本日は敵さんも来らず 蓄音機を午后聞く 甲府の澤田屋を思い出したり 澤田屋のケーキの味も思い出す」
そこには甲府市の澤田屋で音楽とケーキを楽しんだ思い出が綴られていました。
しかし、甲府の女学校の生徒から手紙で知らされたふるさとの味は、戦争によって変わり果てていたのです。
=女学生の手紙=
「兵隊さんのお手紙によると澤田屋の菓子の味が忘れられないって ありましたけど 最近のお菓子 皆砂糖が使われていないの ケーキ甘くないのよ お菓子の配給が少しなもんだから近頃 口にしたことがありませんの でも食べたいという気持ちは少しもありませんから とても結構よ 兵隊さんは昔の味だけを覚えていらっしゃるから幸福ね」
甲府空襲を体験 伴野光子さん:
「砂糖はほとんど使われていなかった。配給でもなかった」
澤田屋に近い甲府市の桜町、今の中央1丁目で生まれ育った伴野光子さん87歳です。
女学生の手紙が書かれた1943年、昭和18年当時は7歳でした。
伴野さん:
「芋の中にご飯粒があるみたいなご飯とか、それも十分になかったから親が食べさせてくれるのを食べて生きるだけで精一杯だった」
そして、砂糖不足を告げる女学生の手紙から2年、甲府の街に「あの夜」が訪れます。
1945年(昭和20年)7月6日深夜、甲府空襲アメリカ軍が甲府の市街地を爆撃。
伴野さん:
「歩く後ろ後ろを、焼夷弾が落ちる。母が『後ろを見ないで まっすぐ見て、なんでもいいから走りなさい』って」
伴野さんは身重の母やきょうだいと笛吹市石和町にあった親類の家を目指して必死で逃げました。
伴野さん:
「焼夷弾の直撃で赤ちゃんをおぶった人が倒れたのを見た.。だから、もう戦争は絶対嫌だと思いますね。
『助けちゃだめ、手を出したらだめ、戻っちゃだめ』と言われて。もう良心も何もない。自分が生きることだけ」
甲府空襲で甲府の市街地は74%が焼き尽くされ、1127人が命を落としました。
伴野さんの暮らした桜町も澤田屋のビルも焼け落ち、華やかだった街は一夜にして変わり果てた姿となったのです。
伴野さん:
「(焼け跡を)下駄で歩いたけど下駄が焦げるぐらいだった。立ち直れるのかしらと思いましたね」
その翌月…79年前のきょう、8月15日、終戦。
伴野さん:
「ほっとしました。もう何よりもうれしかったですね」
=子どもたちの手紙=
「大東亜戦争を勝ち抜きます」「大張り切りの軍国乙女なんです」
子どもたちが戦地にあてて書いたはがきや手紙。あれから80年余り…
伴野さん:
「こんな手紙を出させるなんて、かわいそうすぎる」
同じ時代を生き抜いてきた伴野さんの最近の楽しみはスマホに送られる孫からのメッセージ。
平和への道筋をつくるのもまた、「言葉」の力だといいます。
伴野さん:
「未来を考えると本当にね、ただ幸せと健康とね、安全を祈るだけですね。
「その時代時代でそれなりの心の通う方法を見つけて、お互いに励ましあっていけるっていうことですよね」
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