79年前、1945年8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾が投下されました。そして実は関西にも、その“リハーサル”として「模擬原爆」と呼ばれる爆弾が投下されていました。
戦争を直接知る人は年々少なくなってきています。そんな中、後世に体験を伝えようとする人と、模擬原爆について研究する若者がいます。
自宅の下に残る防空壕
大阪市東住吉区の田辺地区に住む龍野繁子さんは、99歳になった今も自宅で茶道を教えています。戦時中から住んでいる家の畳の下には、空襲警報のたびに家族で避難していた防空壕がありました。
(龍野繁子さん)「家の中へ防空壕を掘りましたよ、みんな。上から屋根や瓦が落ちてきたらどうにもならない。でもその時はそういうことで命が助かるって考え方だった」
いつ爆弾が落ちるかとおびえる日々を過ごしましたが、空襲にあうことはなかったといいます。しかし、79年前の1945年7月26日、田辺地区に一発の爆弾が落ちました。
「ドッシーン、バリバリ」建物を直撃した“模擬原爆”
(龍野繁子さん)「ドッシーンって音とバリバリって天井を突き抜ける音がした」
教員だった龍野さんは、子どもたちと勤労動員先のボタン工場にいた際、近くの建物を爆弾が直撃しました。
(龍野繁子さん)「大人2人でも抱えられないような大きな石が空をぐーっと、100m以上(飛んできた)。大きな石が空を飛んできたんですよ。爆弾の力って恐ろしいとその時初めて思いましたね」
使われたのは通常の空襲のものとは違う特殊な爆弾でした。それが、模擬原爆。
模擬原爆は全国に49発投下され約400人が犠牲に
終戦直前、広島と長崎に相次いで落とされた原子爆弾。世界で初めてとなる核兵器の使用を前に、アメリカは入念な準備を進めていました。
丸みを帯びた形で、通常の爆弾より高い位置から投下する原爆は、目標に正確に落とすのが難しいことが課題でした。そこで、長崎に落とされた原爆「ファットマン」とほぼ同じ形・大きさの爆弾に、核物質ではなく、通常の爆薬を詰めた「模擬原爆」を使い、投下訓練を繰り返していたのです。
原爆の投下候補地とされた京都や広島などの周辺都市を中心に、7月20日から
8月14日までの間に49発が落とされ、約400人が犠牲になりました。
「爆弾で吹っ飛ばされて…」犠牲になったトシちゃん
そして、そのうちの1発が大阪・田辺に落とされたのです。この巨大な爆弾で7人が亡くなり、その中に龍野さんの友人も含まれていました。
(龍野繁子さん)「トシちゃんっていう姉の親友が田辺の駅の近くに住んでいた。爆弾で吹っ飛ばされて遺体(の場所)がわからなかったんですよ。10m飛ばされた所に遺体があったんです。なんともいえない嫌な時代ですね。二度と来てほしくないですね」
爆弾が落ちた場所に近い恩楽寺では、毎年、模擬原爆が投下された7月26日に追悼式が行われています。龍野さんはこうした機会に当時の体験を参加者らに伝えてきました。
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