石垣島事件で殺害された3人の米兵に最初に手をかけたのは、幕田稔大尉だった。海軍の特攻、震洋隊の隊長だった幕田大尉は、剣道の達人という理由で石垣島警備隊の司令に呼び出され、米軍機搭乗員の処刑実行者となった。海軍兵学校を卒業後、MO(ポート・モレスビー)作戦に加わり、足に大けがを負った幕田大尉。石垣島事件の後、特攻としての出撃なしに終戦を迎えたが、シベリアに抑留されている父に代わって一家を養うため、郷里の山形から北海道に働きに出ていた時に米軍に拘束されていたー。

◆顔が半分切れた法廷写真

石垣島事件の法廷 右側の端が幕田大尉(米国立公文書館所蔵 髙澤俊明氏提供)

日本大学の高澤弘明教授がアメリカの国立公文書館から持ち帰った石垣島事件の法廷写真。幕田稔大尉は傍聴席に座る被告のグループ写真に写ってはいるのだが、一番右端なので顔が半分切れている。法廷写真には、死刑の宣告を受ける被告が一人ずつ写っている写真があるのだか、幕田大尉の写真がどれかは分からない。それを特定しようと苦労していると、高澤准教授から、国立国会図書館でデジタル化されている資料を教えていただいた。

日本刀剣保存会が出している「刀剣と歴史」(昭和57年)に刀菊山人が「幕田大尉と石垣島事件」について書いていたのだ。そこには、海軍兵学校時代の幕田大尉の写真もあり、それは顔が半分切れた法廷写真と同一人物だった。

◆軍歴に書かれていた”海戦”

海軍兵学校時代の幕田稔(「なまくら剣談(二十九)刀剣と歴史」より)

幕田稔大尉は、山形中出身、海軍兵学校を卒業している。69期だ。

二号に渡って掲載された「幕田大尉と石垣島事件」には、幕田大尉の軍歴とその説明があった。

<刀菊山人「なまくら剣談(三十)続・幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号より>
(幕田稔の軍歴)
昭和16年(1941年)海軍兵学校教程卒業
昭和16年9月15日剣埼乗組を命ず
昭和17年3月2日補祥鳳乗組
昭和17年5月11日戦傷(左下腿失肉創)により氷川丸病院に入院

◆火だるまで艦沈没 全治6ヶ月の重傷

空母「祥鳳」(呉市海事歴史科学館所蔵)

<刀菊山人「なまくら剣談(三十)続・幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号より>
幕田大尉は軽空母「祥鳳」に乗り組んで、MO(ポート・モレスビー)作戦に参加し、これが珊瑚海にて米空母の「レキシントン」と「ヨークタウン」の攻撃隊に襲われて爆弾13発、魚雷7発を受けて火だるまとなって沈んだ時、左下腿に重傷を負ってそれから半年間ほど病院暮らしを余儀なくされたことがわかる。
これには、「祥鳳」艦長の井沢石之介大佐の現認証明書がついており、それによると、昭和17年5月7日の午前9時25分頃、敵機と交戦中に爆弾の破片を身に受けて負傷したということである。

病院船時代の氷川丸(日本郵船氷川丸HPより)

「祥鳳」はこの時、零戦6機をあげて敵の第一波をかわしたが、20数機よりなる第二波につかまってしまったわけだが、そのちょうど二十四時間後には、今度は5航戦の「瑞鶴」と「翔鶴」より飛び立った艦攻、艦爆機の同時攻撃を受けて、「レキシントン」と「ヨークタウン」の2艦とも火災を生じ、前者は自国の駆逐艦の魚雷によって処分され、後者はかろうじてハワイに帰投したのだった。

炎上する空母レキシントン(米海軍撮影)

しかし、この日、「翔鶴」も73機の敵機に攻撃され、飛行甲板に爆弾3発をくらい二百名以上もの死傷者を出してしまい、MO作戦は中止されるにいたった。

幕田大尉が最初に乗り組んだ「剣埼」は、その後は空母に改築されて「祥鳳」と改名されたので、珊瑚海に出撃して負傷するまの8ヶ月間ずっと同じ艦に乗り組んでいたことになるそうだ。

◆震洋隊は特攻出撃なく終戦

そして幕田大尉は、石垣島事件の後、震洋特攻隊長のまま終戦を迎えた。

「震洋」とは水上特攻用の体当りモーター・ボートで、重さは1・4トン。速力は23ノット、艇の前部に炸薬がつめこまれてあった。
幕田大尉は大村湾の川棚で訓練を受けた後、この隊長として石垣島へ赴任したわけで、思えばこの一事こそがその後の彼の運命を大きく狂わすことになったのだが、さいわいなことに米軍は石垣島へは上陸しなかったため、震洋隊は特攻出撃をすることなく終戦を迎えた。

◆復員後は”身体に鞭打ち”北海道へ

担架で運ばれる傷病兵(日本郵船氷川丸HPより)

特攻出撃なく命永らえた幕田大尉は、郷里の山形へ帰るが、抑留された父に代わって一家を支えるため、北海道へ働きに出る。

(刀菊山人「なまくら剣談(二十九)幕田大尉と石垣島事件」(刀剣と歴史 昭和57年11月号日本刀剣保存会第530号)
幕田大尉は、昭和21年(1945年)1月15日に石垣島から郷里の山形に復員し、その後は1ヶ月あまり休養しただけで痩せ衰えた身体に鞭打って復員省の掃海艇長として宗谷海峡方面へ出かけ、さらにその年の暮には北海道の魚粉会社へと転じ、陸軍に召集されたシベリアから戻らぬ父に代わって一家の生活を支えていたのだった。

◆米軍に拘束 暴行受け調書に署名

マッカーサー元帥(米国立公文書館所蔵)

昭和22年9月に逮捕された彼は、北海道から手錠をかけられたまま刑事に付添われて東京へ連行され、明治ビルにて米人調査官たちの取調べを受けたのだが、調査官たちは彼にとって身に覚えのないことまで並べ立ててきた。
そこで彼が「ノー」と答えてはっきりと否定すると、調査官の一人のダイヤー大尉が、睡眠不足の長旅でくたくたに疲れ切っていた彼に殴る蹴るの暴行を加え、まったくの力ずくで強引に調書を署名させてしまったという。


幕田大尉と海軍兵学校で一期下の井上勝太郎大尉は、慶応大学経済学部の教室で警官から手錠をはめられるやいなや引きずり出されたと書いてある。幕田大尉も仕事先から強引に連行されたようだ。さらに彼の足跡を辿るー。
(エピソード55に続く)

*本エピソードは第54話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3 「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6 「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11 「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26 「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27 「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28 「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31 「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32 「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33 「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34 「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35 「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37 「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39 「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40 「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41 「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42 「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43 「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44 「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46 「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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