生き物の細胞には、異常なタンパク質が増えるのを防ぐ「品質管理システム」が備わっています。この「小胞体ストレス応答」と呼ばれる仕組みを解明したのが、京都大特別教授の森和俊さん(66)=名城大特任教授=です。がんや糖尿病、アルツハイマー病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)などさまざまな病気と関わっており、国内外の製薬会社やスタートアップ(新興企業)が、小胞体ストレスを標的にした創薬に役立てようと盛んに研究しています。(平井良信)  小胞体は細胞内の核に近い膜に囲まれた小器官で、タンパク質を作る工場に例えられます。正しい構造のタンパク質は別の器官に送られますが、遺伝子の変異で異常な構造をしたタンパク質は小胞体に蓄積します。これを「小胞体ストレス」と言い、細胞の死滅など悪影響を与えて病気を引き起こします。  それを防ぐ細胞の品質管理の仕組みが、小胞体ストレス応答です。異常なタンパク質が蓄積したことを検知し、修復や除去する機能です。「分子シャペロン」と呼ばれるタンパク質が検査員の役目を担い、品質管理を手助けします。  シャペロンは本来、社交界にデビューする際の「付添人」の女性を意味します。1980年代後半、米国で小胞体ストレス応答の存在が徐々に分かってきていましたが、詳しい仕組みは未解明でした。

◆センサー

 89年、森さんは30歳の時に米テキサス大の研究室に留学し、生涯のテーマとなる小胞体ストレス応答と出合います。京大大学院薬学研究科から岐阜薬科大に移って助手を務めていましたが、「分子生物学の本場である米国に行きたい」と、安定した職を捨てて渡米する一大決心でした。  森さんが任されたのは、小胞体内で異常なタンパク質が蓄積したことを感知するセンサー役の遺伝子の発見です。10万個の酵母を培養し、小胞体ストレス応答を示すことができなくなった変異型の酵母を探しました。半年間にも及ぶ作業は神経をすり減らし、「夜に大量の寝汗をかくこともあった」といいます。あきらめることなく変異型酵母3個を見つけ出し、センサー役の遺伝子「IRE1」の存在を突き止めました。  しかし、ほぼ同時期に米カリフォルニア大のピーター・ウォルター教授が同じセンサー役の遺伝子を見つけ、先に米科学誌「セル」へ論文を発表しました。意気消沈しましたが、森さんの論文の方がより詳細だったため、2カ月遅れてセルに掲載されました。同じ発見に関する論文が世界トップレベルの学術誌に載るのは異例のことでした。

◆スイッチ

 森さんは93年に帰国後、今度は分子シャペロンを活性化させるスイッチ役のタンパク質の発見に取り組みます。試行錯誤の末、核内のタンパク質「HAC1」を発見。だが、またしても論文の投稿はウォルター教授に先を越されてしまいます。「目の前が真っ暗になった」と落ち込みましたが、ウォルター教授の論文とは、それが機能する仕組みについての解釈が異なっていました。  森さんは「同じ結果であれば先を越されたら、もうどうしようもない。しかし主張が違うのであれば、どちらが正しいか決着がつくまでやろうと考えた」と当時の心境を明かします。実験を続けて論文を磨き上げ、自説の正しさを証明することで97年に専門科学誌に論文が掲載されました。  強力なライバルに「負けたくない」という気持ちが、小胞体ストレス応答の解明という大きな功績につながりました。森さんは2009年にカナダ・ガードナー賞、14年に米国ラスカー賞と著名な国際賞を受賞し、ノーベル生理学・医学賞の有力候補者として名前が挙がっています。  森さんは小胞体ストレス応答の研究について「ゼロから始めて、自分がそろえたという感覚がある」と振り返り、「この仕組みが生命活動の維持に重要な働きをしている。まだまだ研究すべきことがあり、奥行きがある」と話しています。

<もり・かずとし> 1958年、岡山県倉敷市生まれ。77年京都大工学部に入学後、薬学部へ転じ、81年に同学部を卒業。85年、岐阜薬科大助手、89年、米テキサス大博士研究員となり、小胞体ストレス応答の研究を始める。93年に帰国し、エイチ・エス・ピー研究所主任研究員を経て、2003年から京大大学院理学研究科教授。16年に恩賜賞・日本学士院賞、23年、慶応医学賞を受賞。今年3月に京大教授を定年退職し、4月から京大高等研究院特別教授、名城大薬学部特任教授。




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