能登半島地震から半年が過ぎ、震災ボランティアの活動にも少しずつ変化が出てきました。富山市のボランティア団体は、東日本大震災の復興支援を教訓に、能登に「笑い」を届けるボランティアを始めました。

7月7日、石川県能登町の仮設住宅の集会所にやってきたのは、富山市のボランティア団体「ふっこうのおと」です。

彼らがこの日届けたのは「能登ほっこりほっこり落語会」。

ふっこうのおと 小林仁代表「東北もそうなんですけど、これから仮設移られてからがまだ長いと思うんですよ、じゃあ定期的に何ができるかっていうところをいろんな形で考えていって、きょうは落語ですけど」

東北の被災地支援を続けている「ふっこうのおと」は、能登半島地震後の1月15日からほぼ毎週能登町や珠洲市で炊き出しボランティアを行っています。

この仮設住宅に暮らす濵高芳美さんとは炊き出しを通じて交流を深め、今回、笑いを届けるボランティア「落語会」が実現しました。

能登町・濵高芳美さん:
「本当にあたりまえの毎日なのにあの1分であたりまえがなくなった。ずっと続くと思っていたのにそのあたりまえが1分でなくなるんだなっていう。でもそれを克服していくには地域のつながりがないと」

「遊びにおいでが言えなくなった…」

元日の能登半島地震で震度6強を観測した石川県能登町。

地震で大きな被害が出た鵜川は、富山湾に面した静かな漁師町です。地区の中心部では木造家屋の倒壊が相次ぎ、通りをふさぐなど甚大な被害が出ました。

濵高さんと林令子さん(80)はご近所さんの書道仲間です。

濵高芳美さん:
「毎日ここを見てると寂しくなるっていうか、毎日みんなでいたのになって」

林令子さん:
「町の中がこんな状態になるとは」

濵高芳美さん:
「思わんかったね、人がいなくなるっていうのは」

取材した日は日曜日で重機は動いていませんでしたが、「公費解体作業中」の紙があちこちに貼られていて、倒壊家屋の解体・撤去作業が始まっています。

濵高さんの自宅は「中規模半壊」でした。

濵高芳美さん:「天井抜けてる」

天井が抜けて雨漏りがするなど、家全体の損傷がひどく、寝泊りできるのは1部屋だけ。自宅と仮設住宅を行き来して生活しています。

濵高芳美さん:
「1月1日に孫が誕生日だったんですね。ここで誕生会をして、2時ごろ帰ったんです」

地震はその後、午後4時10分ごろに起きました。

濵高芳美さん:
「怖い、本当になんか怖いですね。だからみんなで集まれるのはいつだろうって。集まれないかもしれないなとか思いながら。泊りにおいでが簡単に言えない」

林令子さん:
「言えない。また来てねって言いにくい」

濵高芳美さん:
「遊びにおいでが言えなくなってしまった」

崩れた屋根の下から救い出されて…

林さんの自宅周辺は鵜川でも特に被害が大きかった一角です。

自宅はすでに解体・撤去し、更地になっていますが、地震で屋根が崩れ落ち、林さんはひとり屋根の下に閉じ込められてしまいました。

林令子さん:
「こたつの下に潜ったんです。携帯電話を持って。いろんな柱がこうなってて、とにかくその時点では隙間があったので這い出していったんです」

1日の夜には防災士が駆けつけて抜け道を作り、林さんは無事救助されました。

林令子さん:
「不思議な気がします、生きているのがね。だって、そのあと見たらあまりにもこんな(ぺしゃんこに)なってるから」

自宅があった場所には庭だけが以前と変わらず残っています。

林令子さん:
「こうやって花が咲くと、生きてるって実感がありますね」

林令子さん:
「暮らしてて楽しい町にしたいというか、あれほどの活気はないにしても、まったく人の住まない町になりたくない。何とか、何とか、がんばっていかなくちゃと思ってますけどね」

余震のたびに揺れる気持ち…

被災した鵜川地区の人たちが暮らす仮設住宅「うかわ団地」。現在74世帯・155人が身を寄せています。(7月10日時点)

濵高さんは4月から仮設住宅に入居。自宅を修繕して鵜川に住み続けることを決めましたがー。

濵高芳美さん:
「女の兄弟で私が残って跡をついだんですね。それは私がお嫁に行ったらお墓はどうするんだろう、この仏壇は誰がみるんだろう。なんか父から譲り受けた変な思いで。いや、でも本当にそれでいいんかなってふと思ったんですけど。でもまた守らなきゃなって思って」

前を向いて進もうという思いと逃げ出したくなる気持ち。地震の恐怖を体が覚えていて、余震のたびに気持ちが揺れるといいます。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。