今からおよそ20年前まで、石川県珠洲市に原発を建設する計画があったことをご存じでしょうか。候補地にあがったのは、珠洲市の三崎町寺家と高屋地区。元日の地震で津波や海底が隆起する被害があった場所です。もし、珠洲原発が稼働していたら…私たちは過去の経験を教訓に、これからの未来を考える必要があります。
北野進さん
「あそこに波返しが見えますよね。あのあたりまで海が広がっていた。ここまで風景が変わってしまうとびっくりですよね」
珠洲市の高屋地区。かつてこの場所は原子力発電所が建設される候補地の1つでした。元県議会議員の北野進さんは、およそ2メートル隆起し露になった海底を見つめながら、反原発運動に奔走していた日々を思い返します。
北野進さん
「このあたりに見張り小屋作って、向こうから関電の車が入ってきたので。“こんな遠く離れた能登の先端まで来てなんで原発つくるんだ”と、“そんないいもんなら都会につくれ”と」
28年間に及ぶ珠洲原発“推進派”と“反対派”の争い
北陸・中部・関西の3つの電力会社による「珠洲原発」建設構想が明るみに出たのは1975年。珠洲市は市長選や県議選を重ねながら、推進派と反対派が対立を深めていきました。しかし2003年、電力3社の社長が珠洲市役所を訪れ、原発の計画凍結を申し入れました。
「珠洲原子力発電所計画について、鋭意協議をしてきましたが今般、本計画を凍結することを決定しましたのでご報告します」
28年間にも及ぶ市を2分した争いは幕を閉じました。
30代の頃、反対派として建設予定地で阻止行動にあたっていた北野さんは、「珠洲原発がなくて本当に良かった」と話します。
北野進さん
「(これだけの高さが)隆起したということです。本当に止められてよかったなと思う。志賀原発の再稼働は本当に論外だと思う。次の隆起が志賀原発を襲わない保証はないわけで、建ててはいけないところに建ててしまった。廃炉しかない」
北陸電力「志賀原発の安全性に問題はなかった」
志賀原子力発電所。
元日、志賀町では震度7を観測したものの、原子炉建屋の地下2階では震度5強の揺れにとどまりました。
東京大学大学院 岡本孝司 教授
「岩盤の上に5メートルの基礎を載せて、さらにその上に鉄筋コンクリートで原子炉を造っているので地震に対してはものすごく余裕がある」
40年近く原発の研究を続ける東京大学大学院の岡本孝司教授は今年3月、現地に赴き被害状況を確認しました。
今回、志賀原発で観測した地震の揺れは「地震動」という指標では399ガル。志賀原発は1000ガルの地震動を前提に設計しているうえ、岡本教授はこの「“1000ガルを超える揺れ”はまず来ない」といいます。
東京大学大学院 岡本孝司 教授
「(原発下の)岩盤が壊れちゃいますから、そんな揺れは来ない。残念ながら潰れてしまった家も見てきましたけど、そこらへんは岩盤の上(※志賀原発)と堆積層の上(※家屋)だと揺れが全然違う」
今年1月の記者会見。地震が今後、原発再稼働に向けた審査に影響を与えるかどうか問われた、北陸電力の松田社長は。
北陸電力 松田光司 社長
「能登の大地震の新しい知見、これは的確に反映して審査に臨んでいく。何よりも審査については我々の安全性をしっかり理解していただいて、それをもとに地元の皆さんにご安心頂く、これが一番大事」
「地震で得た新たな知見を活かしたい」と繰り返し述べ、志賀原発の安全性に問題はなかったと強調しました。しかし、実際に地震を経験した住民の中には、当時の対応について不信感を抱く人も少なくないようです。
「これで再稼働?」周辺住民が抱く不信感
石川県志賀町の福浦港。原発から5キロ圏内にある港町には、およそ400人が暮らしています。
福浦港 能崎亮一 前区長
「あれが建屋と煙突と…ここの避難所は、原発に一番近い避難所でした」
区長を務めていた能崎亮一さん。元日の地震発生をうけ、以前校舎として使われていた建物に住民を避難させたり、支援物資を用意したりしました。
福浦港 能崎亮一 前区長
「(体育館は)ここは全部2階のガラスが割れて中に人が入れんかった、風もひどいし…それで、当時は一旦ほとんどの人が車で車中泊」
能崎さんが案内してくれたのは、1階にある“放射線防護エリア”です。
避難してきた500人のうち、お年寄りや子どもなどおよそ50人がこの部屋に寝泊まりしていました。
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