「放送人の会」が記録した放送界に携わった偉大な先人たちのインタビューから今回は、沖縄を代表する放送人で、米軍施政下の沖縄で琉球放送、沖縄放送協会の立ち上げに尽力した川平朝清氏をお届けする。主な聞き手は「放送人の会」会員でNHK出身の各務孝氏と野崎茂氏(いずれも故人)。
本土より20年以上遅れて始まった沖縄の放送
各務
沖縄で初めて放送を出したのが1941年の太平洋戦争の開始の時だということで驚いたんですが…。
川平
昭和16年ですからね。
各務
そうですね。昭和16年ですね。しかもちょうど開戦の日に初めて試験電波が出た※ということを読みまして、なぜこれだけ置局はもとより、放送開始が遅れたのか、その辺ちょっといきさつを伺いたいです。
※日本放送協会沖縄局(JOAP)は、正式には1942年3月19日開局。太平洋戦争勃発のニュースはテスト放送中にとび込んできた(宮城悦二郎「沖縄・放送戦後史」より)。
川平
詳細は知りませんけれども、ただ、はっきりしていることは、日本政府の南方経営というのは台湾統治に重点を置いたといういきさつがあると思うんですね。
それからもう1つは、あの当時、社団法人日本放送協会にしてみれば、沖縄に局を作るということについての技術的な問題ですね。それから経営上の問題は多分あったと思うんですね。
で、それから、当然のことながら、沖縄の経済状況というのは非常に悪いから、ラジオなんていったって、そう大して普及しないであろうという、沖縄の人の立場からすればかなり政策の上での差別はあったと思いますね。
で、台湾の方は、もう台湾放送協会※というのが独自のスタートをしておりますし、それでかなり全島にネットワークをつくる。しかも、第2放送と称するものはですね、教育放送ではなくて、台湾語の放送をやるというくらいに、放送に対する台湾総督府の行政施策というものは非常に島民感化、島民の、台湾では皇民化という言い方してますよね。天皇の民とするということで、その皇民化的な策があったんですね。ですから、沖縄の場合は取り残されていたと。
※台湾放送協会 1931年日本の植民地だった台湾で社団法人として設立された
各務
「沖縄・放送戦後史」によりますと、1945年の3月に米軍機のロケット弾が放送局に当たって、放送は不能状態になって、それから4月1日には米軍が上陸して。だから、局員が8名亡くなったとされていますけども、この8名の方というのは全部沖縄県人の方です。そして戦後ラジオ放送が開始されるまでの5年間※というものは…全く空白なわけですね。恐らく。
※1949年5月に米軍政府がAKARラジオのテスト放送を開始、1950年にスタジオを那覇の米軍政府内に移した、と前述の宮城悦二郎「沖縄・放送戦後史」にある
「琉球の声」誕生
川平
全く空白ですね。しかし、私の兄の朝申※(1908~1998)というのがですね、沖縄人側の政府、あのころは沖縄人側の政府を沖縄民政府と言ってたわけですね。
※川平朝申 (かびら ちょうしん) 当時沖縄民政府勤務 のち「琉球の声」放送局長
そこに文化部というのがありまして、ラジオをやろうという提案をするわけですよ。で、提案をしますとですね、電気もない、ラジオを持ってる沖縄人がいない。まずは住宅だということで、荒唐無稽扱いされるんですね。
私の兄は臆することなく、実際にアメリカ軍政当局に持ってったら「お、これはグッドアイデア」と。むしろ軍政当局のほうがこれを取り上げるということになるんですよ。だから、その意味では、私の兄の朝申、私事ではありますけれども、「ラジオというものはまず電波を出さなければ、誰も聞かない」と。「みんなラジオ受信機を用意してラジオが始まるのを待つというものではない」と。「しかもラジオを始めれば、これを聞きたいということになって…」、今で言えば電化ですよね。
※(1950年)当時の沖縄本島の電力事情は、1953年に牧港火力発電所が石炭火力による電力供給を行うまでほぼ自家発電に頼っていた。1954年、琉球電力公社発足、復帰後沖縄電力となる。
各務
そうして「琉球の声」、通称ラジオ沖縄っていうのができた。川平さんのお兄様の朝申さんが発議されて、そして軍政府が認めてですね、その局長に任命されたのも、軍政府から任命されたわけですか。
川平
そうです。
※「琉球の声」放送(通称ラジオ沖縄)は1949年米軍により始まった日本語試験放送を引き継ぐかたちで1950年1月21日開設。現在のラジオ沖縄(ROK)とは別の会社。その後、地元紙沖縄タイムスが中心になって設立した琉球放送(RBC)が引き継いだ。
「琉球の声」が放送を開始した時には、ほとんどの番組はNHKの番組を中継したんですよ。で、NHKはですね、あの当時短波で番組を送ってたことがありますから、その短波を受けて再放送したと。
それについては、当時、日本の方も占領下ですから、これはもうアメリカの、沖縄の軍政府と、本土のCIE※との間で連絡がついていて、それでNHKの番組というのは安全であるというような気持ちもあったと思うんですね。ですからNHKの番組をほとんど放送してました。
※CIE(Civil Information and Education Section) 民間情報教育局 放送などを管轄する部局。
各務
当時の番組は沖縄県人にはどういう受け取られ方でしたか?
川平
喜ばれてた面はありますね。やはり本土から引き揚げてきた人たちがいますから、本土で聞いたものを沖縄でも聞けるということで、非常に喜ばれました。
さらに言えば、私は1952年NHKのアナウンサー養成所に参加して研修を受けるということも出来ましたから、そういう意味ではNHKは非常に好意的だったと思います。
各務
ただ、この放送史によりますと、1951年から53年の間は、大体NHKからの番組が50%あったのが、55年から米軍の意向があって、NHKの番組は1日2時間に減らされたとあります。これはやっぱり朝鮮戦争とか何かと関連があるでしょうか。
川平
ええ。これは明らかに日本が1952年に独立を回復しますよね。そうなるとNHKの放送は危険であると、何でも報道をしたわけですからね。もう検閲がなくなってますし。もうそれは当然のことなんで。それで沖縄で面白いことが起きたんですよ。
各務
NHKからの番組が減るということは、自主制作のものを増やさなくちゃならないということですね。
川平
そうです。で、その頃から、沖縄の制作能力というのはかなり高まってきたと思います。それで一番問題になったのはニュースなんですよね。で、ニュースは自己取材をやってたわけですね。
いっぽうで検閲は続いてました。
アメリカ留学のこと、それからRBC時代のこと
川平
私は1953年から57年までアメリカのミシガン州立大学に留学※して大学院まで行くんですが、そこの大学院を出る時にですね、学部長が私を呼んで「川平、おまえ帰ったらどこで仕事するんだ」と。だから「今のところは琉球放送って、かつていたところが商業放送になってるんだけれども、そこに行くことになるかもしれない」と。
そしたら「向こうはアメリカ軍の占領下にあるから、いろいろと圧力だとか何とかあるだろう」と。「いや、圧力どころか、ニュースはまだ検閲されてるんだよ」と云ったら「そういう事実を書き送れ」と。「そしたら我々のほうでバックアップしてやる。報道の自由というのはアメリカの民主主義の国是である。検閲があったら何でもいいから知らせろ」というような学部長だったですね。
これは非常に心強いことだったんです。そしたら帰ったらですね、1週間もしないうちに検閲がなくなるんですよ(笑)。ですから、何もそれについては働きかける必要はなかったんですけれどもね。
アメリカに留学するときは、あのころはガリオア資金※ って言ってたんですね。いまのフルブライトの前で。
※ 占領地域救済政府資金のこと。
その資金で行きましたので、身分は全く切れて行きましたけども、ただ留学した期間だけは帰って沖縄で勤めなければいけないという、そういう条件があるだけでしたね。ですから、帰ってきた時には琉球放送の社員として採用された。
各務
それはアナウンサーとして?
川平
いえ、違います。その時はですね、琉球放送は日本語のラジオと、英語のラジオの2波を持ってたんですね※。で、そこのステーションマネージャーというのがアメリカ人だったんですけども、アメリカ人がちょうど辞めるということになったんで、で、私がアメリカから帰ってくるなら、その仕事を川平にさせようと。そうすれば、アメリカ人ですからかなりの高給を払ってたわけですね、その高給を払わなくて済むと(笑)。
※ 琉球放送は1955年から1973年まで1局2波で英語によるラジオ放送も行っていた。
会社にとっても、私が帰ってくることは非常に良かったんじゃないかと思うんですね。で、私は大学院ではラジオ・テレビの経営学をとってましたんで、修士論文ていうものも、沖縄にテレビ局を建設し、その経営と放送番組についてというような内容で書いたんですよ。
ですからそれを持って帰ってテレビを始めようということで、琉球放送はそれを買ってくれたわけですね。まあ、買ってくれたって変な話ですけれども。ですから、タイミングとしては非常に良かったです。で、琉球放送も、一応経費節減にはなったと思いますが。
ただ、そのアメリカのマネージャーが使っていた社宅と、それから車を与えてくれましたですね。で、これは私ごとで恐縮なんですけど、私は家内がアメリカ人なんです。その家内には「(沖縄には)もう電気はない、水道はない、ないわけじゃないけど、どっかにバケツをぶら下げて行くんだ」とかね、「それからもうトイレっていうのは、もうこれは、フラッシングトイレットなんてものはない」とか、そういうことを言って、家内は相当覚悟して来たんですよね。
そしたらそういう家をポッとくれたもんですから、「大うそつき」ってことになったんですけども(笑)。みんなこういう家に住んでるわけじゃないんだっていうことは家内も後でわかるんですけれども。
各務
琉球放送っていうのは、TBS系だったということですけど。
川平
RBCのラジオの時代はですね、何ていうんですか、いろんな局から番組を買って出してましたでしょう。
野崎
ああ、クロスネットっていうんです。
川平
それから、テレビを始めたときにはまだマイクロウェーブが入ってませんから、まさにもうフィルムで買ったり、あの頃はまだビデオはそんなに入ってなかった時代ですから、キネスコープっていったですか、何ですか、あれ、キネレコ※ 、キネレコって。
※ Kinescope Recording. テレビ映像をフィルムに変換する装置。
野崎
ええ、画質はすごく悪いですよね。
川平
ええ。ですからニュースなんかもそのキネレコで来たものを放送してるという状況でした。
ですから、そういうことではですね、RBCもテレビを始めるときにですね※、やっぱこれはもう経験のある社とですね、経験のない社との違いだと思うんですよ。
そう言ったら、OTV※※さんには大変失礼なことになるかもしれませんけど、これはちょっと放送の経験のない方たちがよくやってるなっていうような、そんな印象を受けました。しかし、スタッフにはもちろん経験者はいたと思うんですが。
※ RBC テレビ開局は1960年6月 JNN加盟を前年より申請。
※※ OTV 沖縄テレビ放送 1959年11月開局 FNN系。
で、RBCの場合は、これはかなり計算していたんですね。マイクロウェーブはいずれ来ると。となると、九州で一番近いところ、鹿児島まで来てる局はっていうことになると、ああ、南日本※だということで、そのあたりの計算はしていたわけですね。
ですから、マイクロウェーブが出来たときには、RBCはJNNに加盟し、TBS系の番組をとると。でしたが、もちろんキネレコ時代ですからいろんな所から番組を買うっていうことはやってましたけども。ニュースはJNN系列にすぐ入りましたですね。
※ 南日本放送(MBC) テレビ開局は1959年4月、JNN系。ラジオは1953年10月開局。
民放の後に公共放送OHKが誕生
各務
で、沖縄放送協会の話になるんですが、OHKは開局からずっと会長でいらしたわけですよね。
川平
はい。
各務
設立の経緯っていうのはどういうものだったんでしょうか。
川平
長い話になりますけれどもね。「沖縄が日本に復帰しない限り日本の戦後は終わらない」と言った佐藤総理が来た時に、先島までは足を運んでですね、「テレビ局をプレゼントする」と言ったんですよ。
そうするとですね、日本の郵政省では、そういうテレビ局設置のための設置室とか何とかというのを作って、もうどんどん進めていくわけですよ。で、そのための調査だとか、置局のことについてはNHK が全面的に協力するわけです。そうすると、ハードウェアはどんどんどんどん出来ていくわけですけど、それをどう運営するのかという話になるわけですね。
じゃ、誰を会長にするかという話になった時に、これも不思議なあれなんですけども、私はもう公共放送に行くつもりでいたんですよ。で、RBCの社長で座安さん※という人がいたんですけども、その社長に「座安さん、いや、社長、今度公共放送が出来たらね、私はそこに行きたい」と。
※ 座安 盛徳 琉球放送初代社長
各務
まだそのときは30代でした?
川平
40になってました。
野崎
で、それは正式な沖縄返還の前からそういう公共放送の事業の、何ていいますか、整備をですね、始める場合、資金的には政府の融資を受けるっていう?
川平
そうなんですよ。ですから、私が会長になった時にですね、あのときに「融資」とは言わんで、投資そのままもらっとけばよかったなと思ったんですけども(笑)、しかし融資ということで、これは、復帰のときにNHKが施設一切全部譲渡を受けるわけですけれども、そういう融資についてはNHKが返済しましたよ。
野崎
ああ、そうですか。するともう協会をお作りになった時に、将来的にはNHKへ行くんだっていう沖縄側の態勢と、NHKがもう引き取りの準備を既におやりになってたと。
川平
それはやってくださったと思うんですよ。第一ですね、私はあの出来た時に、「副会長と、それから編成制作担当の理事はですね、NHKから出してください」と。で、NHKにお願いして、で、これもですね、私は琉球政府に対して「役員はそういう構成でいく」と。それから、出向をお願いしたんですよ。
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