2021年2月1日、ミャンマー国軍はクーデターを実行し、当時国家顧問として国の最高指導者だったアウン・サン・スーチー氏を含む民主派の政権幹部を軒並み拘束した。
軍の支配に反発する国民は、全国に広がった抗議デモでその意思を示したが、軍はその国民に容赦なく銃口を向けた。
そうして都市部の民主派勢力は武力で制圧され、主戦場を少数民族の支配地域である辺境地帯へと移していった。そんな民主派勢力の中には、国境を越えて隣国のタイに逃れ、抵抗活動を続けている人々も多い。
彼らはタイで息を潜めて生活しているわけではなく、同じく国軍と対立する少数民族武装勢力とも連携して、日本を含む国際社会に情報発信し、理解と協力を呼びかけている。クーデターから3年以上が経過した現在も、彼らは国軍の支配を終わらせるための戦いを続けている。
ミャンマー政変の取材を担当、目の当たりにした国軍の残虐性
クーデターが実行された当時、私はJNN外信部の記者として、RKBバンコク支局に赴任していた。
コロナ禍の真っ只中であったうえ、実権を握った国軍がメディアへの監視を強めていたため、ミャンマーへの入国は困難を極めた。
現地で取材するために国軍との交渉を進めながら、バンコクから遠隔で情報を集め、原稿を書くというストレスの溜まる状態がしばらく続いたが、国内の状況がさらに悪化するのに時間はかからなかった。
国軍は、国民への武力行使という一線をいとも簡単に踏み超えた。そして私は、デモに参加した若者らが射殺されたという原稿を、毎日のように書き続けることになる。
SNSで拡散される、この世のものとは思えない残虐な弾圧の映像を数えきれないほど目にした。頭を撃ち抜かれ、糸が切れた操り人形のように倒れる若者。血まみれになった我が子の遺体を前に、絶望の叫び声を上げながら頭を抱える母親。テレビのニュースでは放送することのできない、そのような映像を見続ける日々に、冷静に記事を書いているつもりでいた私の精神は、気づかないうちに蝕まれていたようだ。夜に眠れなくなり、アルコールの力を借りて寝ついても1、2時間で気持ち悪い汗をびっしょりかいて目が覚めてしまう。
日中も、ふとした瞬間に弾圧の映像が蘇り、意識が途切れる。すると、たったいま自分が何をしていたのかわからなくなり呆然とする、といったことが度々起こるようになった。この症状は都市部のデモが制圧され、目につく形での弾圧が減るにつれ、徐々におさまっていったが、現在も時折悪夢にうなされて目を覚ますことがある。取材を通して垣間見ただけの私がこんな風なのだとしたら、当事者であるミャンマーの人々の苦しみはいったいどれほど深いのだろう。
クーデターから2年、バンコクでの任期終了…「このまま帰国できるのか?」
2023年3月。クーデターから丸2年が経過しても、ミャンマー国民の苦しみは続き、状況が改善する見通しも立たないままだった。
そんな中で、私の4年半にわたるバンコク支局での任期は終わりを迎え、4月頭には日本に帰国するように会社から辞令が出た。しかし、帰国日が近づくにつれ、私の中で自分に問いかける声がだんだんと大きくなっていった。
「このまま帰国できるのだろうか?日本での平和な暮らしに戻れば、彼らへの思いも薄れてしまうのだろうか?」
答えはノーだった。
国境地帯での取材を重ね、民主派勢力と繋がるにつれ、彼らの勝利のために、ニュースを出し続けること以外に、もっとやれることがあるのではないか、そんな思いも芽生えていた。
すでに後任人事が決まっており、私がバンコク支局のポストに残るなんて我儘は、許されるはずもない。そして何より私は、すでに自分がこの事象を「取材したい」とは、感じていないことに気づいていた。
軍政を倒して民主的なミャンマーを実現する、その活動の「当事者になりたい」と思ってしまっていたのだ。であれば、私は記者としてこの事象に関わるべきではない。
帰国を目前にして、私は当時の上司に退職の意思を伝えた。会社には迷惑をかけてしまう。日本にいる家族も説得しなくてはならない。それ以外にも様々な課題があり、実際に退職するまで、そこからほぼ1年かかってしまうのだが、2024年4月、私はタイ北西部のミャンマー国境地帯に拠点を置き、活動をスタートさせた。
”農業”の可能性?自給自足からその先へ
自分に何ができるのか、半信半疑のまま飛び込んだことは否定しないが、具体的に何をやるのかについては一つの計画があった。
農業である。
国境地帯に逃れてきた民主派勢力の人々の中には、自給自足のために農業を始めている人たちがいた。
その人々の支援に、NPO法人「グレーターメコンセンター」(以下GMC)が立ち上がった。
GMCはもともと、ミャンマーの少数民族に、農業を通した職業訓練を続けてきた実績があり、そのノウハウを活かした取り組みであった。
事業は外務省の「日本NGO連携無償資金協力」の一環で、農業支援だけでなく、軍による空爆などで焼け出された避難民への食糧支援、医療支援などと併せて基本的にはその予算で行われていた。
GMCは国境地帯の広大な耕作放棄地を借り上げて彼らに提供し、必要経費の一部も支援していたが、予算には限りがあるし、性質上永遠に続くものでもない。
農業支援の目標はあくまでも彼らの「自立」であり、最終的には支援が必要なくなるところまで、農業による収入を増やしてもらう必要がある。
当初、この支援の動きを取材していた私であったが、ニュースとして世の中に伝える以上に、私にやれることがあるのではないか、という直感があった。
彼らと企業を繋ぎ、農業ビジネスとして成立させることができるのではないだろうか、と考えたのだ。
タイで生産された農作物を日本の消費者向けに輸出している日系企業に心当たりがあった。その企業が求める品目の農作物を、日本の消費者に合う品質で生産することができれば、比較的高い価格で彼らから買い取ることができる。日本に輸出するためには、農薬の使い方や種類など日本の規格にあう農法で生産する必要があるが、それは彼らの農業技術の向上にもつながるのではないか。
GMCの支援の枠組みの中で、その支援が無くなっても継続できる事業を作る、それが私のミッションとなった。
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