1964年6月16日、BSN新潟放送のアナウンサーは会社の屋上から実況中継で新潟地震の様子、津波の様子を伝えていました。

「津波来ました!…至急高台にお上りください」
「1~2mくらいの高波…、船が1隻転覆しております」
「現在のところ市内は電話線が不通、それに停電、通信網が断たれております」

自宅から飛び出し逃げる女性と、誘導する男性の姿がありました。
そして、石油タンク火災の煙も見えました。

14人が死亡し、300人以上が重軽傷を負った新潟地震。

BSNに残っている貴重な映像と、実際に地震を経験した男性の証言から、あの日、新潟で何が起こったのか。そして、そこで得た教訓を学びます。

新潟市西区に住む斎田英司さん(75歳)が新潟地震を経験したのは、高校1年生の時。
斎田さんの通っていた新潟明訓高校は当時、新潟市中央区川岸町にありました。
1964年6月16日午後1時1分、斎田さんは教室にいたそうです。

「椅子・机が、後ろから前の方に向かってダーっと動いて、もう立ってられないぐらいで…。何が起きたっていうのはもうわからんまま飛び出たんですね」

外のグラウンドは地面が割れ、水が噴き出していました。

斎田さんの証言をもとに8枚の絵が描かれた(日本画家 藤田哲也氏画・2013年)

【当時のナレーション】
「突如として激震が新潟市を中心に襲った。市内いたるところから地下水が噴き上げ、逃げる間もなく土砂の海と化していった」

【斎田英司さん】
「パンを売る車がちょうど来てて…、沈没っていう感じだったんですね」

斎田さんは、先生の指示で陸上競技場や川岸町の県営アパートへ逃げました。
しかし…

【当時のナレーション】
「さらに土砂は県営の陸上競技場へと流れ込み、様相を一変させた。逃げる人、肉親を求める人で街々はごったがえす…」

【斎田英司さん】
「県営アパートは液状化現象でダァーっと倒れたような状況で…。先生の指揮も全然乱れていて、どこに行ったか分からねーし、もう構ってられねーやと」

自宅があった臨港町の方向で煙が上がっているのが見えました。
その煙は、石油タンクの火災によるものでした。

「自宅方面で煙が上がっているというのが、目視できたんだと思うんですよね。やべーんじゃねーの?って」

斎田さんは、母親が心配になり、急いで帰ろうと考えました。
自宅に戻るには信濃川を渡らなければなりません。
現在の東区臨港町にあった自宅に向かおうと、信濃川を渡ろうとしましたが…

昭和大橋は橋げたが落ちていて、行く手を阻まれました。

「そん時は必死で動いたみたいな感じ…。通常考えられないですよね」

斎田さんは、越後線の鉄橋を渡って川を越えたそうです。

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