ポツダム宣言の受諾によって、「戦争犯罪人」が処罰されることになった敗戦国、日本。米軍がBC級戦犯を裁いた横浜軍事法廷では、命令による実行者で下士官や兵の場合は、情状酌量されるケースもあった。しかし、石垣島事件では藤中松雄ら下士官二人が極刑を執行された。同じ米軍機搭乗員が殺害された事件と何が違ったのかー。

大佐の責任回避が理由?

石垣島事件で殺害された3人の米軍機搭乗員

石垣島事件の戦犯裁判では、1948年3月に宣告された最初の41人死刑の判決から、二回の再審で34人は減刑されたが、1955年ごろになってもまだ14人がスガモプリズンに止め置かれていた。その釈放を勧告する文書の中に厳罰となった理由の記述があった。

(「石垣島事件関係者赦免勧告総括的理由」より)
終戦後この事件が発覚して、占領軍の捜査機関により捜査が開始せられるや、司令の井上乙彦大佐は自己保身のため、その責任を回避せんとしてか、処刑の命令を下したることなき旨、陳述していたため、関係者多数が検挙さられて、遂に一兵卒に至るまで上官の命令ではなく、自己独自の意思によって実行したものなりと認定され、起訴された者四十六名の多数に及び、内一名は裁判中結核のため不起訴となったが、四十五名は判決を受け、そのうち二名無罪、二名有期刑の外は、すべて絞首刑を言渡されるに至ったのである。

石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐が保身のため、「自分が命令したことはない」と述べていたため、それぞれが自分の意志で飛行士たちを殺害したことになり、多くの者に死刑が宣告されたということになっている。

しかし、井上大佐は裁判の終盤で法廷の証言台に立ち、「自分が命令した」ことを明確に訴えている。

最終弁論で弁護人が主張したこと

石垣島事件の法廷(米国立公文書館所蔵)

1947年11月末に始まった石垣島事件の裁判は、翌年3月8日と9日に弁護人の最終弁論が行われた。その前に行われた検事側の論告では、全員に対して絞首刑が求刑されている。最終弁論は、アメリカ人女性のブライフィールド弁護士が担当した。

この最終弁論の内容を検討したであろう文書が国立公文書館にあった。日本人の尾畑義純弁護人のサインが入った「井上乙彦被告に対する弁護士側最終弁論についての意見」という文書だ。

法廷における陳述で事実認定を

尾畑義純弁護人の「最終弁論についての意見」(国立公文書館所蔵)

(尾畑弁護人「最終弁論についての意見」より)

<井上被告に対する各罪状項目に関する総括的意見>(注・分かりやすく要約)
「被告、井上乙彦に対する各罪状項目に記載された犯罪事実の認定について、これまで同被告が検察官に供述した検察官提出の証拠と、弁護側が提出した証拠と被告人が法廷で陳述した内容には相違点があり、この点に関しては、検察官側の取調べの際は宣誓をしておらず、法廷では宣誓して証言しており、検察側の取り調べはあらかじめ想定した筋書きに適合する様に事実をゆがめて被告の答弁を誘導する傾向が認められるが、法廷では公明正大に訊問と答弁が行われたこと等の点を鑑みると、井上被告の陳述は法廷における陳述をもって最も真実性の富めるものと認めざるを得ず、よって犯罪事実の認定は法廷における陳述をもってその根拠となすのが当然だ」

つまり、検察官側が提出した証拠は、「各々の被告は、命令はなく共同謀議で殺害に及んだ」という筋書きに沿うように録られたもので、井上大佐は「真実を述べる」という宣誓もしていない。一方、法廷で宣誓後、井上大佐が述べた「自分が命令した」という内容は真実性が高いので、こちらを事実認定の根拠にするべきという主張だ。

井上大佐も強制に基づき答弁

横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)

(尾畑弁護人「最終弁論についての意見」より)
「井上乙彦その他45名に対する戦犯事件のこれまでの推移を、判明する事実に基づいて考察すると、本件被告の多数に対して検察官側の取り調べは、相当腕力をもって被告の証言を強制し、被告人の自由意志に基づかずに、被告を答弁させた形跡があり、検察官側の取り調べの態度は、当法廷における裁判委員会の公明正大なる態度に比べて遺憾に感じられるが、被告井上乙彦もまた、その程度は軽いがこの種の強制に基づいて答弁した点があると認められる同被告の犯罪事実の認定に際してはこれらの点に考慮することを希望する」

井上大佐が書いた「真相」

石垣島警備隊司令 井上乙彦大佐(米国立公文書館所蔵)

石垣島事件では、米軍の調査官から首を絞められるなどの暴力を受けて調書を取られたと証言している者が多数いる。井上大佐は、暴行は受けていないようだが、それでも供述の強制は受けている。それを裏付けるような文書があった。

井上乙彦名で、「真相」と書かれている。米軍は、井上大佐が一人目の捕虜の斬首を命じた幕田稔大尉と供述を揃えようとしたようだ。

真相
1,幕田訊問でダイヤー調査官は、幕田は「自発的にやった」と強制したらしい
2,幕田は命令であるとどこまでもがんばったらしい
3,その結果井上乙彦との対決となった
4,対決前山田通訳は井上乙彦を別室に呼んで次のように云った「幕田は自発的にやったと既に陳述している」「それで君もその通りに供述せよ」
5,私(井上)はそれには応答せず対決した
6,対決の際、幕田には先に発言させず調査官より発言し質問応答あり
7,スガモMPは数名、室外で聞いていたのを私(井上)は記憶する 証人あり
8,調査官は私(井上)に強制して「命令ではなく質問形の話をしただろう」と云わしめた それで「それは命令ではない」と断言しようとした
9,私は「命令したのである」と断言した


弁護人が所持していた資料の中にあったこの文書。米軍が描いた「共同謀議」の筋書きに合うように強制された取り調べの中で、井上大佐も、後に裁判で「真実と違う」と否定した調書を録られていたー。
(エピソード48に続く)

*本エピソードは第47話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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【あるBC級戦犯の遺書】#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
【あるBC級戦犯の遺書】#46 「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
【あるBC級戦犯の遺書】#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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