立っていられないほどの揺れだった。寒空の下、壊れた家から着の身着のまま飛び出して、避難したのは農業用ビニールハウスだった。近所の仲間で身を寄せ合い、励まし合った。

あれから5か月。初夏の日差しが差し込むビニールハウスには、みんなで囲んだちゃぶ台がぽつり。中には誰もいない。二次避難先から集落に戻った人もいれば、避難を続けている人もいる。でも、また集まれる時がきっと来る。

「同じ集落の人同士、励まし合って過ごして心強かった。良い面も悪い面もあるけれど、それはそれとして、気持ちを一つにして頑張れることもあるので」

石川県輪島市の干場昇一さん(76)は、6月5日の昼下がり、そう振り返った。

地震の後、近くの公共施設に避難所が設けられたが、定員はすぐにいっぱいになり、入れなかった。ビニールハウスの持ち主の男性が近所の人々に声をかけ、“自主避難所”となった。地震から1週間過ぎたころも、3歳から90代のおばあちゃんまで11人が避難していた。

石油ストーブを持ち込み、底冷えする土にベニヤ板などを敷いて、毛布をかぶせて寒さをしのいだ。正月料理を作ろうと準備していた食材を持ち込む日々。「本当に、おいしいね」。アツアツの味噌汁を口に運ぶと、涙があふれ、笑みがこぼれた。

でも、「ビニールハウスは、人が住む場所ではない。このままではだめだ」。
みんなで話し合い、約2週間後、ビニールハウスを出て、それぞれ避難することにした。ある人は、遠くの親戚の元に向かい、ある人は、避難所に入った。干場さんは、県西南部の妻の実家に移った。

自宅近くの畑が気にかかる。朝4時に起きて車を走らせ、輪島市に通った。時には、片道4時間以上もかけて。雪が舞う季節から、気づけば、最近は汗を流す日も増えた。
「草を刈ったりしないといけないし、放っておくわけにはいかないんだ」。

でも、崩れた自宅が目に入ると、落ち込んでしまう。家々の解体・撤去は進んでいない。

「個人の力ではもうどうしようもないから、行政の力を待つほかない。ほとんどの家がつぶれてしまった。輪島市は解体は来年10月ごろまでかかるというけど、こうしてずっと被災した家を見ながら過ごすのは、けっこう気持ちが滅入りますね」

思い出が詰まった家から、まだまだ取り出したいものもたくさんあるけど、もう自分では取り出せない。

「あとは諦めて、解体を待つしかない。それを一番願っている。この状態のままでは、元気が出ませんわ」。

今、ビニールハウスのそばでは、仮設住宅の工事が始まっている。

「今のところ町内23軒のうち、仮設を希望する人は11軒。私も希望しています。他の人は、迷っていたり、自分で何とかすると言っている」。

干場さんは、集落の人たちの取りまとめ役として、慣れない通信アプリのグループ機能を使って、意見や希望をまとめ、市に伝えている。県や市によると8月末までには希望者全員が仮設住宅で暮らせるようにすると言うが、今の状況を見ると間に合うのかどうか。それでも、同じ集落の人たちと、ともに助け合っていきたい。

「地震直後にビニールハウスで過ごした時もそうだったし、今度の仮設住宅もそうだけど、顔見知りの人がいるに越したことはないね」。

仮設を出たらどうするのか。もう一度家を建てることは難しい。先々のことを考えると、不安は尽きない。でも、畑にはサニーレタスと、ネギを植えた。オクラの苗も準備してある。これまでも、これからも、ここで生きていく。

(news23 柏木理沙)

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