モダンな庭園づくりで知られる岡山県吉備中央町出身の作庭家の重森三玲をご存じでしょうか?高速の岡山道を走っていると大きな三玲の看板を見ますよね。そんな彼が残した由緒ある庭園を復元しようと、大きなプロジェクトが動き出しています。
70年前の写真です。砂や苔で自然を表現した枯山水と、茶庭が融合するモダンな作りの日本庭園、その名は「驢庵」です。しかしこの庭園は、10年以上手入れされず荒れたままの状態で放置されていました。
「いいですね。周りは苔だったわけですよね」
この由緒ある庭園を復元しようと、おととし庭の再生プロジェクトが立ち上がりました。これまで2年をかけて調査や測量などが行われ、残された図面などをもとに本来の姿を取り戻そうと奮闘しています。このプロジェクトの発起人は稲谷順一さんです。
(発起人 稲谷順一さん)
「財産ですね。本当に財産だと思います。それだけの価値がある庭です。この庭は」
庭を手がけたのは吉備中央町出身の作庭家・重森三玲。ルールにとらわれないモダンな庭づくりで昭和を代表する作庭家として知られています。
代表作には昭和初期に作られた市松模様が特徴的な京都・東福寺の本坊庭園や、戦後に作られた独創的なデザインの大阪・岸和田城の庭園などがあり、いずれも国指定の名勝にも登録されています。
また吉備中央町役場の中庭に広がる友琳の庭は、美しい砂紋と苔による枯山水のなかに、「束ね熨斗」にヒントを得た独特な模様の池が共存していて、「近代日本庭園の傑作」と言われています。
三玲は日本庭園の常識を覆す画期的な庭づくりで名をはせてきました。
さらに、吉備中央町にある重森三玲記念館の裏には、晩年の三玲が作った庭が残されています。1969年、三玲が73歳の時に作った「天籟庵庭園」です。
随所にこだわりが散りばめられているこの庭一番の特徴は…。
(重森三玲記念館 難波健吾館長)
「飛石以外のところはモルタルで出来ています」
セメントと砂を水で練ったモルタルで庭の大半を作るのは当時日本で初めての試み。三玲は後の手入れなどに配慮しこの技法を選びました。モダンな庭を寂びさせることなく時代を超えて残そうという三玲の信念「永遠のモダン」が体現された庭園です。
(重森三玲記念館 難波健吾館長)
「後の世代の人が見ても『これは斬新だな』『さすが三玲だな』と言われるような庭を作ることを終生忘れずにやった」
「一木一草を用いない」 三玲の革命的な庭園「驢庵」を本来の姿に!
そして、高梁市の備中松山城の城下町に眠っていたのが茶庭「驢庵」です。
「大丈夫ですよね。この辺なんか使えそうなんですよ。昔は一本立ちの掘立てでしたもんね」
2024年4月、この庭を復元する「驢庵」再生プロジェクトが始まりました。本来の姿を取り戻すべく、今後約1年半かけて工事が進められます。プロジェクトには三玲の孫で同じく作庭家の重森千靑さんも参加。祖父の思いも背負って復元に臨んでいます。
(重森三玲の孫 重森千靑さん)
「良く残してくれたなと思うんじゃないですかね。その辺にいたとしたら木々がいっぱいな状況はすごく苦々しく思っていると思う」
70年前、「驢庵」が完成した当時の写真です。茶庭は、奥深い自然を表現するため「植栽が多いことが当然」とされていました。しかし、依頼主から「茶室の移築に予算がかかり、庭園には金を掛けられない」という条件を出された三玲は、初めて木や草が全く無い=「一木一草を用いない」茶庭を作ろうと決意しました。「驢庵」は三玲が不可能を可能とすることに熱意を燃やした革命的な庭園なのです。
そして今週、この一木一草もない庭の再生に向けた第一歩として、草木を取り除く作業が行われました。「驢庵」の元の所有者が植えた椿以外が無くなり、元あった庭園の姿が現れてきました。
(発起人・造園家 稲谷順一さん)
「もうここまで下地が見えるとインスピレーションも湧きますし、『三玲さんはあのときこういう感覚でこういうことされていたのかな』と思いも少し伝わってくるようなところまでは見えてきた。本当に偉大なる先輩の形見じゃないですけど、思いを受け継いでいけるような再生にしたい」
いよいよ本格的に動き出した再生プロジェクト。作庭家・重森三玲がこの地に残した庭園が蘇ろうとしています。
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