無数の焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、3000人以上が犠牲になった1945年5月25日の「山の手空襲」。俳優の仲代達矢さん(91)にとって、それは「心臓が飛び出しそうなほどの恐怖を抱いた記憶」だった。空襲被害者の救済法案に賛同する動機にもなった体験とは、どんなものだったのか。その後の人生にどんな影響を及ぼしたのか。被災した南青山を一緒に巡り、思いを尋ねた。(山田雄之)

 山の手空襲 1945年4〜5月に米軍が東京で行った大規模空襲。東京大空襲・戦災資料センターによると、麴町や赤坂、渋谷、世田谷などを目標にした5月25〜26日は、下町を焦土にした3月の東京大空襲を上回る3262トンの焼夷弾などを投下。3242人が死亡、1万3706人が負傷し、家屋15万6430戸が被害を受けた。米軍はこれを最後に「主要目標なし」として東京を大規模空襲リストから外した。

「山の手空襲」追悼碑の前で手を合わせる仲代達矢さん=東京都港区で(佐藤哲紀撮影)

◆今でも見る悪夢、話したくないけど伝えなければ

 「今も、あのことで恐ろしい夢を見るんです。だから本当は話したくない。でも戦争を知る世代は少なくなっている。平和のために伝えることが役目なら、やった方が良いかなと」  「山の手空襲」の追悼碑に向かう車中。仲代さんは、今回取材に応じた理由を聞いた「こちら特報部」に、こう説明した。  「あのこと」が起きたのは1945年5月25日。仲代さんは12歳で、疎開先から渋谷区に戻り、中板橋(板橋区)の中学校に通っていた。南青山の青南国民学校(現青南小)時代の友人の家に遊びに行き、道玄坂の自宅に帰る途中、空襲警報が鳴りだした。午後10時すぎ、青山学院大の近くを通っているときだった。

国民学校6年生のころの仲代達矢さん=本人提供

 何百機というB29が焼夷弾をバラバラと落としていく。無我夢中で逃げている途中、1人でポツンと立っている6歳くらいの少女を見つけた。「こんなとこにいたら危ない」と手を引いたが、すぐにすさまじい音がした。「肩をすくめて振り向くと、少女は私が握っていた手だけになっていた。焼夷弾が直撃したんです」  あと数十センチずれていれば死んでいた。恐ろしくなった仲代さんは、慌てて少女の手を放り投げて走り続けたという。そこから自宅までの記憶はない。「とにかく必死だった。だから、当時どんな気持ちだったかと問われても答えようがないんです」

◆表参道の石灯籠は遺体の血や体液で黒ずんだ

 表参道交差点に着くと、ケヤキ並木沿いにきらびやかなショップが並ぶ様子を見回した。「こんなふうに変わるとは夢にも思わなかった。残っているのはこれだけか」と石灯籠を見上げる。1920年の明治神宮創建時に造られ、山の手空襲で焼夷弾から逃れようとした人が周りに折り重なり、炎に包まれた。  遺体から染み出た血や体液で黒ずんだといわれる台座に手を当てた仲代さん。観光客や若者の人波が絶えない街で、「焼け野原だったことしか覚えていない」とつぶやいた。空襲の翌日、前日まであった建物や住宅ががれきの山になり、あちらこちらで火柱が出ていたという。

表参道交差点に残る石灯籠の前で当時を振り返る仲代達矢さん=東京都港区で

 その近くにある港区が建てた追悼碑へ。毎年5月25日に慰霊行事が行われていることを話すと、碑の文字を何度か繰り返して読み、そっと手を合わせた。「多くの小学校の友だちが亡くなったんです。当時は分からなかったけど、後に同窓会で聞いたりしてね」  青山学院大の正門前に向かった。車ではよく通るが、歩くのは俳優養成所に通っていた50年代以来とのこと。向かいには当時、路面電車の青山車庫があったが、今は国連大学本部のビルが立っている。

◆戦争で命を落としたのは兵隊だけではない

 少女と会った場所は定かではないが、青山学院大を過ぎて渋谷駅へ向かう途中だったと記憶している。「手をつないですぐ焼夷弾が『バーン』と。急に軽くなって手だけになっていた」と思い返す。「捨てちゃったんですよね。せめて手だけでも手厚く葬ってあげられていたら」と後悔を口にした。  たくさんの人たちが亡くなる中で、生き永らえていることを申し訳なく思うこともあったという仲代さん。「もらった命、余命なんだと。命ある限り、燃やしたい」と演劇に打ち込んできた。キャンパスから出てくる学生たちを見つめながら、「絶対に戦争の犠牲にはなってほしくないですね」とうなずいた。

空襲を受ける青山学院大付近。左上を通るのが青山通りで、上端が表参道交差点=米国立公文書館所蔵、工藤洋三「日本の都市を焼き尽くせ!」から

 仲代さんは今春、空襲による障害者への一時金や実態調査を柱とする救済法の制定を目指す「全国空襲被害者連絡協議会」に賛同。「軍人関係などには恩給が出ていて、民間人はその対象にならないというのは、被害者を無理やり線引きするところがあり、納得できない」とする文章を寄せた。  「来年は戦後80年。まだ空襲被害者がこんな状態に置かれているのは本当に情けない」とする仲代さん。そのきっかけは山の手空襲の体験といい、「兵隊として出向いて命を落とした人だけが被害者ではない。私たちも雨あられのように降る焼夷弾の中を逃げ、多くの人が死んだ」と強調した。

◆91歳「命ある間に…」の思いは切実に

 文章を出した理由をあらためて尋ねると、「私も90歳を超え、あと何年という年齢になってきた。空襲で被害に遭った方と同じです。『命がある間にこれだけはやっておきたい』との思いが切実に迫っているんです」と胸中を明かした。  出演したNHKドラマ「大地の子」で題材となった中国残留孤児にも触れ、「自らなりたくて、なったわけではない。国の『戦争』という政策が生んだ。空襲被害者も同じです」と訴えた。「当時は女性に選挙権がなかった。国民が国を選んだとの理屈は通らない」とも説く。  「これだけはやっておきたい」ことのもう一つが、名誉館長を務める能登演劇堂(石川県七尾市)で10月に予定する『肝っ玉おっ母と子供たち』の上演だ。

青山学院大から渋谷方面へ歩く仲代達矢さん=東京都渋谷区で

 独のベルトルト・ブレヒトの作品で、1988年、2017年に続く3度目となる。軍隊相手に行商をしながら生きる3人の子の母親が主人公で、戦争に行かせたくない一心で行商をするものの、3人の子は結局戦争の犠牲になる。それでも、戦争を相手にした商売をやめられない悲哀を込めている。

◆伝えたいことは「戦争反対」そして「和顔愛語」

 能登半島地震の影響で延期になる可能性もあるが、「平和の尊さ、どんな苦境でも力強く生きるたくましさを感じられると思う。被災して心を痛めている方々にも来てもらいたい」と話した。  ウクライナやパレスチナ自治区ガザでの戦争に終わりは見えない。演劇を通して「反戦」を訴え続けてきた仲代さんは「戦争だけは絶対に参加しない方がいい。一番被害を受けるのは、殺し合いをさせられる市民ですからね」と語る。  南青山での取材を終え、世田谷区の閑静な住宅街にある「無名塾」まで見送った。いま改めて世の中に一番伝えたいことを尋ねると、間髪入れずに「戦争反対です」。そして、最近気に入っている言葉として「和顔愛語(わげんあいご)」を教えてくれた。仏教の言葉で、和やかな顔で愛情ある言葉で人に接することを説いているそうだ。  「人には優しくする。戦争って恨み言から始まるから。甘い考え方かもしれませんが、一人一人がそんな行動を取れたら、戦争なんて起きないんじゃないのかな」

◆デスクメモ

 1995年の日中共同制作「大地の子」は先の大戦で満州(中国東北部)に残された男性の物語。仲代さん演じる日本の実父と中国の養父は、国交回復後に親子関係が分かった男性を巡り苦悩する。現実の孤児も感動的な親子対面の後も苦難を重ねる。戦争の残酷な運命に心が震える。(本)

 仲代達矢(なかだい・たつや) 1932年、東京都目黒区生まれ。55年から俳優座で活躍し、75年から無名塾を主宰。舞台「リチャード三世」「マクベス」、映画「人間の條件」「用心棒」「影武者」、NHK大河ドラマ「新・平家物語」など数多くの作品に出演。2015年、文化勲章受章。



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