津波で夫が帰ってこない女性、原発事故の避難中に息子を自死で失った男性…。東日本大震災と福島第1原発事故から13年がたつ今も、不眠やアルコール依存など心身への影響に苦しむ人は多い。PTSD(心的外傷後ストレス障害)が何年もたってから発症する懸念も。そんな現状を描いたドキュメンタリー映画「生きて、生きて、生きろ。」が公開される。登場する医療関係者らは、どんな思いで福島を支えてきたのか。(片山夏子)

◆事故直後から長い闘いを覚悟した

 「これは大変なことになる」。震災と原発事故が起きたとき、南相馬市の病院で働いていた精神科認定看護師の米倉一磨さん(50)は、長い闘いを覚悟したという。ストレスやトラウマ、鬱(うつ)などの精神的な問題が出てくることが予想された。  相馬市など沿岸部では震災前から、精神障害に関わる医療や保健福祉従事者が定期的に集まり、地域で支援することを進めていた。それを土台に、心のケアをするNPOと精神科クリニックの設立を計画。震災の7カ月後、米倉さんがセンター長の「相馬広域こころのケアセンターなごみ」が南相馬市にできた。

映画「生きて、生きて、生きろ。」の一場面。アルコール依存症の当事者(手前)の話に耳を傾ける米倉さん(中)ら医療従事者=日本電波ニュース社提供

 米倉さんらは避難所や仮設住宅を訪問し続けた。家族や故郷を失った悲しみ、農作業ができなくなっての引きこもり、先が見えない不安、避難先でいじめを受けての不登校…。さまざまな喪失や環境変化は不眠、鬱、アルコール依存、DV、体重減少などを引き起こした。「長引く避難生活の中で、認知症や心の状態が悪化する人も。自殺未遂を繰り返すなど危機的な人は毎週訪問した」

◆「なんで来るの」と言われながら繰り返し訪ね

 映画にも出てくるが、避難中の息子を自死で失った男性は、睡眠薬と酒を大量に飲んだり、何度も自殺未遂をした。会うたびに「消えたい」「努力してその先に何があるのか」と絶望を口にした。  時には「なんで来るの」と言われながらも、米倉さんたちは繰り返し訪ねた。「1人でも多くの人が心配しているというメッセージを残し、また会おうと次まで死なない約束をする。苦しい、でも本当は生きたいという気持ちを追っていくと相手が変わっていく」

◆メンタルクリニックの患者は増え続ける

 福島県相馬市で精神科医をする蟻塚亮二医師(77)は2013年から、相馬市の「メンタルクリニックなごみ」で診察してきた。患者は増え続け、今は月850人を超える。「診療所には生きると死ぬのすれすれ、絶望の淵を歩いてきた人が来る」  震災後の大混乱の中で性暴力にあった女性は、見て見ぬふりをする周囲に絶望し、生きる力を奪われて来院した。避難先を転々とした女性は娘に「いじめられるから、絶対に避難と言っては駄目」と繰り返し、原発事故を恨んだ。そんな中で娘は不登校になった。「どこに希望があるのか、未来がない状態」  津波で夫を失い「夫が見つからないと私の人生は始まらない」と語った女性は、震災から7年後、激しい頭痛や悪夢が続き来院した。夜中に何度も目を覚まし眠れない。夕方や夜になると震災当時がフラッシュバックして涙が出る。典型的なPTSDだった。

◆何年も経ってから発症するのは戦争と同じ

 PTSDは半年以内に発症するとされているが、この女性のように何年もたってから発症するPTSDもある。蟻塚医師は震災前年に沖縄で、過酷な体験がフラッシュバックするなど「奇妙な不眠」に悩む高齢者に立て続けに会った。原因は60年以上前の沖縄戦だった。

蟻塚医師(右)が患者の話に耳を傾けるシーン=日本電波ニュース社提供

 福島でも奇妙な不眠は起きていた。震災や原発事故が直接の原因や引き金となるほか、仕事を引退して時間ができたり、日常のふとした体験をきっかけにPTSDを発症する。震災前に原発で働いていた男性は作業中に大勢亡くなった事故を数年前に思い出し、「死体の臭いが鼻について眠れない」と訴えた。  児童虐待やいじめも増加。若者の自殺率が全国一になった年もある。「大人も子どもも必要な心のケアをしないままでは、福島でも何十年か後にPTSDが多発する可能性がある」  だが希望もある。誰にも話せなかったつらい体験を受け止め一緒に悲しむことで「震災後、初めて泣けた」という患者もいた。話を重ねるうちに凍り付いた心が解け、人間への信頼を取り戻した人も。そんなとき蟻塚医師は、診察室で互いに生きてきたことを喜び合い、患者とハイタッチする。「過酷な体験の中、ここまで生きてきたことがすごいこと。話してくれた患者に私自身が生きる勇気をもらい励まされている」

◆デスクメモ

 心の傷は時間とともに癒やされる。だが年齢を重ねると、忙しい若いころは気力で抑えていた感情が再び現れるのだと、戦争体験者らの取材で聞いた。街並みのように「復興」するのが、簡単ではない悲しみもある。そう理解することから、現地に寄り添い続ける施策につなげたい。(本)    ◇

◆島田陽磨監督がこだわった呼吸の乱れ、まばたき、淡々とした日常

 映画「生きて、生きて、生きろ。」を制作した島田陽磨(ようま)監督(48)は、2020年秋から3年ほど福島県浜通りに通った。事故後の福島の日常の姿をカメラに収めた約300時間の映像を、2時間のドキュメンタリーにまとめた。  「震災が起きたことで、元々あった問題が表面化し、課題の先進地になった。福島が今どうなり、今後どうなっていくのか、みなが知らなければならない場所になった」。レンズを向ける場所に福島を選んだ理由をそう語る。

ドキュメンタリー制作による心境の変化を語る島田監督=東京都港区で

 事故直後、米国で原発メーカー幹部らに取材するなど原発導入の歴史を探るドキュメンタリーを制作。あれから10年近くたち、福島のことが再び頭をもたげ始めていたこともあった。  ただ、心情を映像化するのは至難の業だった。しかもコロナ禍。何度も通うことで、信頼関係を築きながらカメラを回し続けた。  心がけたのは「長回し」だ。会話が途切れた後の呼吸のわずかな乱れや、背景に偶然映った荒廃、ちょっとしたつぶやきやまばたき。普段はカットする一瞬をふんだんに盛り込むことで、映画を見る人がその場にいざなわれているような臨場感を落とし込んだ。  「取材対象者とは健全な形で距離を置いて取材してきた。ただ、今回は引きずり込まれそうになった」と島田さん。映画は好転することも明るい未来も期待させず、淡々と日常が描かれ続けていく。「行きつ戻りつをただ生きていく。苦しみを肯定しながらそれでも生きていく。それって…ただ生きているだけで、それってやっぱりすごくないかと思えたんです」と話す。思いを共有するため、タイトルには「生きて—」とストレートな文言を選んだ。

◆5月25日東京・中野を皮切りに順次全国で公開

 島田さんは早稲田大出身。世界の秘境を目指す同大探検部に所属し、在学中の1997年に部員2人をペルーで惨殺された事件を機に報道の世界へ。1999年に日本電波ニュース社に入社。ベトナム戦争や在日朝鮮人の帰還事業に関するドキュメンタリーを手がけ、現在は戦争によるトラウマ(心的外傷)の問題を中心に取材している。  島田さんは「原発も戦争も国として押し出しておきながら、問題が生じると最後は当事者の問題に矮小(わいしょう)化させて切り捨てていく」と類似した構造を語る。その上で、「被災者たちが生きていることを嘆き、なぜ生きねばならないのか自問する姿は誰しも考える普遍的なテーマ。人間が日々日常を営んでいく尊さを感じてもらえたらうれしい」と呼びかける。  映画は、東京都中野区のポレポレ東中野で今月25日を皮切りに、順次全国で公開される。(木原育子) 

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