インタビューに答える音楽プロデューサーの松尾潔氏
◆拾った5000円札「交番に行かなきゃ」
―どんな子ども時代を。 頑固者。お調子者でもあったかな。小学2年のころ、父と行った釣り場近くの電話ボックスに5000円札が落ちていました。「交番に行かなきゃ」とせかす僕を、父は「何かうまいものでも食べに行こう」と懐柔して、食堂に連れて行った。 いったんは気持ちが収まったものの、帰宅して罪悪感がよみがえり「交番に届けないと逮捕される!」と言い続けたそうです。父は晩年「あれには本当に参ったよ」とうれしそうに語っていました。 名前の「潔」は、数学者の岡潔と英文学者の池田潔にあやかり父が付けました。今の自分と同じく言動に矛盾も目立った父でしたが「『潔』が『不潔』になるなよ」とよく言われたものです。 ―昨年3月に英BBC放送が喜多川氏の性加害を告発する番組を放送し、5月に旧ジャニーズ事務所の藤島ジュリー景子社長(当時)が謝罪動画を出しました。松尾さんはラジオや交流サイト(SNS)で、藤島氏の記者会見を求めると発言しました。 自分の正義感なんて人並み程度。ただ、喜多川氏の性加害の詳細を知った以上、見て見ぬふりができないだけ。これは、子どもたちの人権の問題ですから。◆大物ミュージシャンに言いたいこと
―発言後、業務提携していた「スマイルカンパニー(SC)」から契約解除を告げられました。松尾さんをSCに誘った同社の看板アーティストで、旧ジャニーズに楽曲多数を提供している山下達郎さんと竹内まりやさんの夫妻も打ち切りに賛成したそうですね。 SCの小杉周水社長に「ジャニーズに依存せずに済むよう自社の新しい才能育成を強化すれば」と提案し、藤島氏につないでほしいとも伝えましたが、首を縦には振りませんでしたね。1997年ごろ、ロサンゼルスで人気歌手ジャネット・ジャクソンと=松尾潔さん提供
小杉家も山下家も、喜多川・藤島家(喜多川氏の姉とめい)との結びつきが強い。山下さんが昨年7月にラジオ番組で、喜多川氏への「ご縁とご恩」と語ったのは、結びつきの維持を最優先にしたからでしょう。 性加害問題がなければ、そんな人生哲学を否定はしません。ですが、前提に正義を欠くと意味は全く異なってきます。番組内で山下さんが喜多川氏への賛辞まで披露したのには言葉を失いました。山下さんは「性加害が本当にあったとすれば許しがたい」と言いましたが、その後は一切触れずに音楽活動やメディア出演を続けています。強い社会的影響力をもつ大御所ミュージシャンとして、被害者や若い世代に失望を与えないために、問題に正面から向き合ってほしい。他の大物ミュージシャンにも同じことを言いたいです。 ―政治や社会問題に声を上げたきっかけは。 2015年、ファンクバンド「オーサカ=モノレール」の中田亮さんから安保法制反対のデモに誘われました。大変、心が傾きましたが、プロデュースするアーティストに影響が出ると思い、お断りしました。 その5年後、新型コロナ禍でライブやコンサートなどが「不要不急」とされて休止に追い込まれます。「音楽なんて…」と言われた気がしました。安倍晋三首相(当時)が星野源さんの曲「うちで踊ろう」を使い「STAY HOME」をアピールした時は、音楽家を蹂躙(じゅうりん)している、音楽が軽視されていると感じ、この国の「さもしさ」を見せつけられたようでした。中学校3年生の運動会で=松尾潔さん提供
社会の中のエンターテインメントやアートは、人体における毛細血管のようなもの。それがないと社会から、しなやかさが失われます。「わきまえろ」と言わんばかりの政府の態度は、欧米や韓国と比べても、エンタメの扱いの低さを感じさせるものです。 昨年8月、「すべての音楽業界人のみなさん! 今こそSNSで声を上げませんか。この国の未来、そしてこの国の音楽業界の未来のために」と呼びかけましたが、同業者の反応が驚くほど鈍かった。旧ジャニーズや政治問題の発信をするようになり、どのくらいの人が僕の元を離れていったか分かりません。でも、この先の人生を歩むために心強いと思える人たちも現れるようになりました。「そんなこと言い続けると干されるよ」と忠告されても、怖いとは思わない。「自分の意思で仕分けしたまで。それが何か」と。◆天童よしみさんは「覚悟あるエンターテイナー」
―歌手の天童よしみさんから「私は『ただす人』が好きです。先生(=松尾さん)のような。ただす人が本当に大好きなんです」と言われています。 ジャニーズ問題で揺れる芸能界を天童さんは冷静に捉え、不器用に声を上げ続ける僕を「ただす人」の一言で全肯定してくれた。うれしかったですね。労働組合で闘う父を見て育った彼女は、社会的弱者の側に立つことに強く自覚的だったジャーナリスト竹中労さんに見いだされた、覚悟あるエンターテイナー。弱き者が誰か、本当の敵は何かを知悉(ちしつ)し、「うた」の社会的意味と役割を体にしみ込ませている希少な歌い手です。 ―「上を向いて歩こう」などを手がけた作詞家の永六輔さんに、小学3年時に佐賀で会っているとか。母が愛読していた文芸評論家・江藤淳さんの講演会に同行した際、登壇したのが永さん。ユーモアあふれる語り口に会場は沸きました。講演後にお目にかかる機会があり、「坊やもずっと聴いていたの?」と頭をなでてくれました。 32年後の2009年、永さんのラジオ番組にゲストで招かれました。人生の瞬間を平易な表現だけで描くという神業のような作詞術をもった永さんが、作詞家をやめラジオに移る決心をしたのは、作曲家の中村八大さんに「これからは言葉とメロディーではなくビートの時代」と言われたからだと述懐していました。
1978年ごろ、アトランタでミュージシャンのデブラ・キリングスと=松尾潔さん提供
僕は「それでも変わらないものがあります」と言いました。大衆文化は急速に変化を遂げるのではなく、本質的で大切な何かを残しながら表層を少しずつ変えていく。永さんの作品はスタンダード(基準)化し、文化としての耐久性を失っていない。「あなたの作品は決してさびつかない。私も影響を受けて新しい音楽をつくる一人です」と伝えたかった。 今では永さんの次女の麻理さん、中村さんの長男の力丸さんともつながりが生まれ、力丸さんとは時に涙を流して語り合うことも。こんな交流が自分の心を豊かにしてくれます。 だからこそ思うことを口にして態度をはっきり示すことは大切です。大上段に構える必要はなくて、喜びや怒りを素直に口にすればいいのでは。初めから駄目と諦めるより、穏やかで明るい未来に少しでも近づけられたら。甘やかな歌を守るために政治と向き合う。新刊にこう記しました。 「理想を語れ、理想の自分になるために。口をふさぐものは要らない。おれの歌を止めるな」◆あなたに伝えたい
社会の中のエンターテインメントやアートは、人体における毛細血管のようなもの。それがないと社会から、しなやかさが失われます。まつお・きよし 1968年、福岡県生まれ。音楽プロデューサー、作家。少年時代から米黒人音楽に心酔し、早稲田大在学中から国内外で取材活動を展開。評論の寄稿やラジオ・テレビ出演を重ねる。90年代半ばから音楽制作へ。宇多田ヒカルさんのデビューにブレーン参加。平井堅さん、CHEMISTRY、JUJUさんらにミリオンセラーをもたらす。2008年、EXILE「Ti Amo」(作詞・作曲)で第50回日本レコード大賞「大賞」を、22年12月、天童よしみさんの「帰郷」で第55回日本作詩大賞を受賞した。提供楽曲の累計売上枚数は3千万枚超。著書に小説「永遠の仮眠」(新潮社)、新刊「おれの歌を止めるな ジャニーズ問題とエンターテインメントの未来」(講談社)など。
◆インタビューを終えて
松尾さんと知り合ったのは数年前。この国の現状や行く末に当時から憤っていた。クインシー・ジョーンズさんら海外の大物音楽家を取材すると話題に上る政治談議が日本では行われない。音楽と政治の地続きを体感しながら、書けず、ラジオでも語ってこなかった。 そんな彼がジャニーズ問題で声を上げ、敬愛していた山下達郎さんと袂(たもと)を分かった。しかし、業界人は沈黙を続け、テレビ局は旧ジャニーズのタレント起用を再開。松尾さんがよく使う言葉「MELLOW(熟した)」とは遠い日本。社会的発信へと踏み出した彼を見て、言いたくなる。「私の口を塞(ふさ)ぐな」 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。