かつて炭鉱の島として栄えた長崎市の「端島(軍艦島)」。閉山を迎えた1974年(昭和49年)、端島労働組合は島への思いを込めて一枚のレコードを制作した。収録された曲の名は『端島音頭』。端島音頭には、全盛時代の活気に満ちた島の姿を記憶にとどめようとする人々の心が込められた。歌ったのは当時NBC長崎放送の専属歌手だった男性と女性。閉山から50年がたった今年、端島音頭が当時の歌手2人によってよみがえった。

「端島音頭」誕生

一 野母のナー 野母の山から 端島を見ればヨー
  今日もくるくる薬研が廻る 炭が湧き出る、宝島
  ソレ ホンニヤレソレ 宝島

「端島音頭」は戦後すぐに作られたと伝えられている。島の盆踊りの定番曲で、その振り付けも島民によるものだった。

名調子に乗って7番まである歌詞には島の心象風景が盛り込まれていて、当時の様子をうかがい知ることができる。

二 沖のナー 沖の三つ瀬の 朝霧晴れてヨー
  今日もおひさま 笑顔でのぼりゃ 島に流れる朝の唄
  ソレ ホンニヤレソレ 朝の唄

三 空をナー 空を飛んでる 水鳥さえもヨー
  つばさ休める あの高所は 端島自慢の 九階建て
  ソレ ホンニヤレソレ 九階建て

石炭の島、過酷だった暮らし

「石炭がなければ誰がこんな島に住むものか」ーみんな口を揃えていたという石炭あっての端島だった。海面下1キロに達する坑道を掘削、気温30~36℃、湿度90%の海の底で、男たちは休まず黒ダイヤを掘り出した。掘れば掘るだけ売れる上質の強粘結炭「瀝青炭」。官営の八幡製鉄所に送られ日本の近代化を支えた。

周囲わずか1.2キロのちっぽけで過酷な環境の島に、最盛期は5千人を超える人がひしめきあいながら、支え合いながらたくましく果敢に生きていた。

炭鉱員が作った島の歌

「端島音頭」の作詞は淀川正二さん。作曲は光田藤雄さん。
2人は端島炭坑の従業員だった。島には、「端島軽音楽団」という楽団もあった。

元島民・加地英夫さん:
「お盆になるとみんなで『端島音頭』をにぎやかに踊って楽しんでいました。もちろん炭坑節も歌うんですけど、やっぱり端島で作った『端島音頭』をみんなで楽しんで歌って踊っておりました」

そう教えてくれたのは、閉山まで23年間端島炭坑で働いた加地英夫さん。2015年の取材時には「端島音頭」の一節を懐かしそうに歌ってくれた。

元島民で、現在軍艦島のガイドをしている高比良秀信さんも「よく流れていたので、聞くと島での暮らしが蘇ってくる」と懐かしんだ。「端島音頭」は島民の心の中で、島での日々の記憶とともに生き続けているのだ。

作詞者と作曲者

端島小中学校の同窓会長・石川東さんによると、作詞の淀川正二さん、作曲は光田藤雄さんはともに閉山を前に島を出て行ったという。

NBCの調べで、作曲者・光田藤雄さんは既に他界され、4人の子どものうち1人が現在も長崎県内に住まわれていることが分かった。

作詞者・淀川正二さんについては、ご本人の行方、ご家族の所在など確定的なことは分からなかった。

残された「ソノシート」

「端島音頭」を現在に伝えているのは、閉山の記念に労働組合が録音した「ソノシート」だ。シートの表には―

「NBC RECORD」
「歌 田中久之 近藤敬子」
「演奏 NBCブルーアンサンブル」

―とある。(「画像」から見ることができます)
NBCレコード?NBCブルーアンサンブル?現役の社員は初めて聞く名前だった。

弊社OBらへ取材してみた。すると「NBC RECORD」は、現在NBC長崎放送のグループ会社である「NBCソシア」の前身の前身「NBCサービスセンター」が制作していたという。当時、専属の楽団や歌手を抱え、テレビやラジオの公開収録で演奏していたほか、レコード制作や独自のイベントも行っていたそうだ。(残された楽団の写真は「画像」から見ることができます)

長崎の歌に詳しい宮川密義さんにたずねると、7番までの歌詞を送ってくれた。宮川さんからの便りには、次の文章が添えられていた。

【レコードはNBC興産で作られ、歌手のお二人はNBCバンドの専
属歌手でした。田中久之さんは健在で、固定電話は●●●-●●●●です。お尋ね下さい】

NBCの専属歌手

NBCバンドの専属歌手だった田中久之さんと近藤敬子さん。この2人の声で「端島音頭」は収録された。そして2人は、今も長崎市内に住んでいることが分かった。

田中久之さんは長崎市にある世界遺産「小菅修船場」で元気に案内人をされていた。そして近藤敬子さんは長崎市で歌の先生として活躍されていた。

連絡を取ってお会いすると、2人とも話し声に艶があり若々しい。「端島音頭」のことをたずねると、青春時代を思い出すように懐かしそうな表情を浮かべた。

田中久之さん:
「当時はテレビやラジオの番組の収録で長崎県内各地を回っていました。あの頃が思い出されます。特に『端島音頭』は、端島に実の兄貴が5年間いたので非常に印象深い曲です」

近藤敬子さん:
「『端島音頭』をレコーディングした時のことはよく覚えています。炭鉱閉山の記念として録音する、その歌い手に選ばれたということで嬉しかったです。NBCのスタジオで3時間位かけて録音しました」

閉山50年を機に、もう一度歌って頂けないだろうか?相談したところ、二人とも喜んで引き受けて下さった。

50年の時を超えて

収録場所に選んだのは、長崎市にある「軍艦島デジタルミュージアム」。4階には、島民たちに「地獄段」と呼ばれた端島神社につながる階段の一部が再現されている。当日は急きょ新聞の取材も入ることになった。

2人は収録の前日、数十年ぶりに会って「端島音頭」を練習してくれていた。「声が出るかな?」照れ笑いの中に緊張が伝わってきた。プロの歌い手の顔だった。そして50年ぶりの収録が始まった。

四 あれはナー あれは夕顔 長崎通いヨー
  赤い三菱 波間に揺れて うれしい便りも二度三度
  ソレ ホンニヤレソレ 二度三度

五 色はナー 色は黒いが きろうてはならぬヨー
  炭で汚れた 自慢の顔ヨ 端島男のだてすがた
  ソレ ホンニヤレソレ だてすがた

あふれる涙

(2人の歌声は「動画」で7番までノーカットで紹介しています)
地獄段の特設ステージに、50年ぶりとは思えない張りのある歌声と声量で「端島音頭」が響き渡った。島への感謝と、愛と、別れの「端島音頭」。元島民の目には涙があふれた。

元島民 水田孝子さん(小1~中3まで端島で暮らした):
「懐かしかったです(涙)。思ってもいなかった。歌を聞いてブワーっと思い出しました」

元島民 松森哲さん(端島生まれ、閉山まで端島で暮らした):
「ジーンときました。盆踊りの時に踊っていたことを思い出しました。まだ踊りも7割くらい覚えてるなー」

故郷にはもう戻れない。学校もない。家もない。でも歌は残った。色鮮やかな瑞々しい思い出とともに、今も島民の心に流れている。

六 端島ナー 端島銀座の 灯ともすころはヨー
  胸もはずむよ 映画の便り 恋しい彼女と二人連れ
  ホン ニヤレソレ 二人連れ

七 沖のナー 沖の漁火 またたくころはヨー
  二つ並んだ やぐらの上に 逢いに来たよな月がでる
  ソレ ホンニヤレソレ 月がでる

閉山50年、いま

端島が閉山してことしで50年。閉山の理由は「エネルギー政策」の転換だった。しかし端島は安全に良質な石炭「瀝青炭」を掘り尽くしてその歴史を閉じた。最後の最後まで黒字だった。かつては不夜城の如く長崎港外で輝いていた島は無人となり、波風の力でやがて元の岩礁に戻ろうとしている。

華々しい繁栄の面影をはぎ取られるように、破壊され朽ちていく端島。その姿は多くの人の心を惹きつけ、2015年には「世界文化遺産」になった。続く端島の栄枯盛衰。「光」と「影」と対峙した時、心に宿るのはどんなメッセージか。廃墟となった端島は今も長崎の港に静かにその姿をとどめている。

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