「来るの遅かったな」
拘置所の狭い面会室。アクリル板を挟み向かい合った男が、言葉を発した。しかめたような表情で、眼光は鋭く見える。雑談を交わしたのち、記者が切り出した。
「裁判で、あなたは殺害した3人と遺族への謝罪を、頑なに拒否し続けていました。そのお気持ちは今も変わりありませんか」
しばしの沈黙が流れた。
「少しは謝罪することも考えていた」
男は言葉を続ける。
「しかし『電磁波攻撃』が事実なら、仕方がない」
3人が次々と刺され…しかし見えなかった背景
事件は2021年10月13日夕方、愛媛県新居浜市の住宅地で発生した。民家に住む3人が、次々と刺され殺害されたのだ。駆け付けた警察官が、現場でナイフを所持していた男を銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕した。
(本編は、前編・中編・後編のうち、前編です)
河野智容疑者(53) 。※呼称と年齢は当時
警察の調べに対して河野容疑者は「殺すつもりでナイフを持っていた」「あいつらが悪い」「3人を殺害した後、自分も死のうと思った」と供述していたものの、明確な動機は不明だった。
その一方で、奇妙な話も聞こえてきた。被害者から警察に「河野容疑者から『電磁波攻撃』を止めろと言われている」といった内容の相談が、数年前から寄せられていたのだという。
その後、検察は、鑑定留置を経て事件から約半年後となる2022年3月、河野容疑者に責任能力があると判断。3人を殺害したとして殺人などの罪で起訴した。
3人を刺し殺すという残忍な犯行。その凄惨さの一方で、捜査機関から漏れ聞こえてくる断片的な情報からは、事件に至った経緯などの背景は、まるで見えなかった。
取材の中での資料、法廷でのやり取りで示された数多くの証拠、そして認定された様々な事実、被告本人との文通や面会、関係者への取材や、専門家の意見などを元に、事件を振り返る。
「組織から電磁波攻撃」心神耗弱か喪失か
2023年12月6日、松山地裁。注目の中、裁判員裁判の初公判が始まった。
設けられた傍聴席の定員に対して、3倍近い人が傍聴券を求めて並ぶ。そして法廷の前には、巨大な門型の金属探知機が設置された。いずれも、松山地裁で行われる刑事裁判としては異例のことだ。
物々しい雰囲気の法廷。そこに、実に4人の刑務官に取り囲まれながら、手錠と腰縄を付けられた男が入って来た。河野智被告だ。白髪の混じった髪は、逮捕された直後と比べて長く伸びたように見える。誰かを探しているのだろうか、目を細めたような険しい表情で、しきりに傍聴席を見回している。記者とも目が合った。鋭い視線だ。
裁判が始まり、検察官が起訴状を読み上げる。
犯行の現場となったのは、知人宅だった。この家に住む、知人の岩田健一さん(当時51)と、同居していた父親の友義さん(当時80)、そして母親のアイ子さん(当時80)の胸などをナイフで突き刺し殺害した。
「殺意を持って、胸などを刃渡り12.7センチのナイフで突き刺し、失血により死亡させて殺害した」
被害者の3人の死因は、いずれもナイフで刺されたことによる失血死だった。
56歳となった河野智被告は、起訴内容を全面的に認めた。
それを踏まえ弁護側は、被告は犯行当時、善悪の判断ができず、罪に問うことができない「心神喪失」だったとして、無罪を主張した。
一方の検察側は「河野被告は『組織』から電磁波攻撃などの嫌がらせを受けたと被害妄想を抱き、怒りを募らせた」と、犯行に至った理由を説明。その上で、河野被告は犯行当時「妄想型統合失調症」を患っていた影響から、自身の行動を理解する能力が著しく劣っていたものの、罪に問うことはできる「心神耗弱」だったと述べた。
異色の裁判、その争点は、責任能力の有無に絞り込まれた。
「ネット掲示板の書き込み」きっかけ…疑心暗鬼は確信へ
続いて検察側の冒頭陳述が行われ、河野被告が凶行に至るまでの、数年間に渡る経緯が明らかにされていく。
被害者の岩田健一さんと河野被告が知り合ったのは約20年前。同じ職場で働いていたことがきっかけだった。当時、2人の間に目立ったトラブルは無かった。だが、事件が発生する4年ほど前から、その関係性に異変が生じ始める。
「2017年ごろ、ネット掲示板への書き込みなどがきっかけとなり、妄想型統合失調症を患うようになった。被害者の一人、岩田健一さんが、自身に対する電磁波攻撃に関与していると考え、責めるようになった」(検察側の冒頭陳述)
妄想型統合失調症の影響を強く受けた河野被告は、岩田健一さんに対する負の感情を募らせていくようになる。2019年には岩田健一さんを呼び出し、ネット掲示板への書き込みや電磁波攻撃を止めるよう「警告」している。
「2020年ごろからは、健一さんへの怒りをつのらせるようになった。電磁波攻撃のせいで生活ができなくなり『健一さんを殺して自殺しようか』と考えるようになった」
「電磁波攻撃」を受け、頭痛などの体調不良に悩まされていたという河野被告。仕事を続けることができなくなり、やがて退職。無職となった河野被告は、妻から離婚を告げられ、犯行の直前には、ひとり車上生活をしていた。所持金も底を突きかけていた。
岩田健一さんが「電磁波攻撃」に関与していると考え続けた河野被告。心の中に蓄積し続ける疑心暗鬼は、やがて確信へと変化していった。
目が合い「あ、おった、殺ろう」
事件当日となる、2021年10月13日の朝。河野被告は、生活をしていた車内でワンカップ酒を飲みながら、岩田健一さんを殺害することに考えをめぐらせた。しかし、離婚した妻との間に居る3人の子どもの将来を考え、犯行を決意するまでには至らなかった。よりを戻そうとの思いから元妻に電話をした。しかし繋がることはなかった。
日も沈み始めたころ、酔いからさめた河野被告は、再び岩田健一さんの様子が気になり始めた。車を出すと、岩田健一さんと両親の3人が暮らす家へと向かった。
「この時にはまだ殺すという結論は出ていなかった」
「岩田健一さんは家にいないと思っていたが、通りかかったら在宅だった。目が合った直後に隠れるのが見えた」
「あ、おった、殺ろうとなった」
「今しかない、今日しかないと思った」
後に行われた被告人質問の中で、河野被告は当時の心境を明かした。また、殺害は何年間も悩んだ末の結論だったと述べた。
河野被告は、車を岩田健一さんの家の近くに止めた。そして包丁を携え、玄関の前に立った。
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