太平洋戦争につながった真珠湾攻撃から12月8日で83年です。当時、アメリカでは、日本人の親のもと生まれた「日系二世」と呼ばれた若者たちがアメリカ兵として戦地に身を投じました。戦争と差別に翻弄された日系二世兵士の葛藤に迫ります。

日系二世兵士を撮り続ける男性

日系二世兵士を撮影し続けてきた男性が仙台にいます。写真家の宍戸清孝さん(70)。13歳のとき、おじが勤める青森県の三沢基地で日系兵士に出会ったのがきっかけです。

写真家 宍戸清孝さん:
「アメリカの将校が日本人の顔をしていた。『なぜあの人は英語で話しているの日本人なのに』と聞いたら、『清孝は知らないな。彼はハワイで生まれた日系二世』というんだと」

真珠湾攻撃で過酷な環境にさらされた日系人たち

明治から大正にかけて日本の貧しい農村地帯から多くの労働移民が、職を求めアメリカ本土やハワイに渡りました。

それが「日系一世」。そして、その子どもたちは「日系二世」と呼ばれました。開戦直前のハワイは、人口40万人のうち3分の1を日系人が占めていたといいます。そんなハワイに旧日本軍は奇襲をしかけます。

1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃。自身のルーツである日本からの攻撃でハワイやアメリカ本土に住む日系人たちは、過酷な環境にさらされます。

日系アメリカ兵を研究 国立国語研究所 松平けあきさん:
「真珠湾攻撃は軍事施設への攻撃だったが、米軍による対空砲火が行われる中で民間人も犠牲になり、その中に日系人も含まれていた。(真珠湾攻撃の後)アメリカ本土では西海岸に住んでいた人たちが、強制的に立ち退かされて強制収容された」

太平洋戦争が始まると、アメリカで暮らす「日系人」たちは、日本にルーツがあるという理由だけでアメリカ政府から「敵性外国人」と見なされました。住む家や家財道具を失い、12万人以上が人里離れた収容所への入所を強制されたのです。

なぜ日系二世は戦地に身を投じたのか

40年に渡り日系二世兵士を撮影してきた宍戸さん。二世の若者たちがアメリカ兵として戦地に身を投じた理由があったと話します。

写真家 宍戸清孝さん:
「自分たちは(敵性外国人という)汚名を晴らす。それを証明する。戦争を通して証明することの悲惨さですよね。自分たちの子ども、孫、ひ孫が一生涯最低の地位に置かれるのは、とてもプライドが許せなかった」

第二次世界大戦で日系二世兵で組織された部隊は、激戦地のイタリアやフランスに派兵されました。

「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」これが、彼らの合言葉だったといいます。多くの死傷者を出しながら数々の勲章を手にしました。

戦争に翻弄された日系二世「ダン・オカ」さんとは

一方、日本語の能力をかわれた日系兵士は、「語学兵」となり両親の祖国である日本と対峙することになりました。日本人捕虜の尋問や暗号解読など情報戦で重要な役割を担ったのです。

写真家 宍戸清孝さん:
「この写真の方はダン・オカさんと言いまして…」

日本人の両親のもとアメリカで生まれた日系二世の元アメリカ兵、ダン・オカさんも語学兵でした。生きていれば104歳。現在の消息をつかむことはできませんでしたが、私たちは今回、アメリカの資料館から1999年に撮影されたダンさんのインタビュー動画を借りることができました。

日系二世元アメリカ兵 ダン・オカさん

日系二世元アメリカ兵 ダン・オカさん:
「私は、戦争兵器をつくっている日本の軍需産業に関する膨大な資料を翻訳するセクションにいました。そして、企業を地図上に記載していました」

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