長崎市の沖合に浮かぶ端島(軍艦島)で育ち、12歳の時に長崎被爆を体験した加地英夫さん。被爆者として、また世界文化遺産の端島で生きた証言者として、その経験を語り継いできた加地さんが11月18日、91歳で亡くなりました。今年6月、加地さんが語った端島での暮らしと1945年8月9日の記憶を紹介します。

端島(軍艦島)での少年時代

長崎市の沖合にある小さな海底炭坑の島「端島」。世界文化遺産にも登録され「軍艦島」とも呼ばれるその島で加地さんは生まれました。

端島は一時日本一の人口密度を誇るほど栄えた島でした。でも加地さんは、長崎市の本土に遊びに行き自然と触れ合うことが何より楽しかったといいます。

加地英夫さん:
「春と秋にある遠足にみんなと一緒に行くのが本当に楽しみだったんです。行先は『戸町水源地』と決まってるんですけどね。春は桜の花が見られるし、オタマジャクシがこれがカエルになるんだよって聞いてびっくりしたり笑。島育ちだから海のことは分かるんですけど、山があって川が流れて生き物があふれて、そんな光景がまぶしかったです」

車の排気ガスにびっくり…何この臭い!

「車が通ると、その排気のガソリン臭に興味津々なんです。端島では嗅いだことない匂いですからね。『自動車が来たぞ!』ってみんなで追いかけて行ってにおいを嗅ぐんです。先生から『こらっ!』て怒られるんですけどね。今考えれば馬鹿なことと思うけど珍しくて面白くてですね」

8人兄弟の6番目として生まれた加地さん。大学への進学を目指して長崎市の旧制県立瓊浦中学校を受験しました。

「上級学校に行きたいなと思って母に話したんです。頑張って大学にも行こうと思って。友達と2人で合格発表を見に行って、『お~入っとる、入っとる!お前も入っとるやんか!』と大喜び!浮かれて2人で遊んだもんだから船に乗り遅れてね」

見事試験に合格した加地さんは端島を離れ長崎市本土へ。稲佐にあったおばの家に寝泊まりし、7月には大浦に引っ越して下宿生活を始めました。

8月9日、満員の路面電車

1945年8月9日は1学期最後の試験が終わった日でした。

加地英夫さん:
「ちょうど試験の1学期の試験があって、もうこれで最後この試験が終わったら夏休みだよということですね。8月9日」

英語の試験を終えて路面電車に乗り込んだ加地さん。乗った電車は稲佐橋の近くで故障で停車してしまいました。ほぼ満員だったという路面電車の中で、加地さんは電車が走り出すのをじっと待っていました。

「止まった電車の中で待っていると、爆音が聞こえてきたんです。あれ?爆音がするな、急降下して爆弾を落とすんじゃないだろうかと思って。ずっと先の方は長崎駅ですからね。駅は狙われて爆撃されると聞いていたから」

「爆音が段々ひどくなるから、身構えましたよ。何か起こるぞという感じで。もうその時は敵の飛行機が駅めがけて急降下している爆音じゃないかなと思ってですね」

徐々に爆撃機の音が大きくなる中、加地さんはその時を迎えました。

1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下。爆心地から1.8キロ離れた長崎市寿町(現・宝町)の路面電車の中で被爆した加地さんは、当時12歳。瓊浦中学校1年生でした

8月9日午前11時2分

「もう目の前でピカっ!と光ったですね。白と黄色が混じり合った色が目の前でピカっと光って、はっとして、すぐ座り込むときに、今度はドカーン!と音がしてですね、耳が聞こえなくなるようなものすごい音でした」

原爆の光と爆音。そして熱さも加地さんを襲います。

「同時に左のほほの方が熱い!と感じたんです。あつっ!て思わず左手でおさえました。大変だと思って座り込んで、学校で教えられた通り目と耳をふさいで。そしたら立っていた人たちが、ガー!と私の上にのってきて押しつぶされました」

満員状態だった路面電車の中で、ドアの近くにいた加地さんは押しつぶさながら、必死に外に出ました。すると、周囲は不気味に薄暗くなっていました。

「どこだろうかここはと思いました。薄暗いんですよ。今まで太陽は頭の上からガンガン照りつけていたのに。今思えばちょうどピカ!ドン!となって原子雲が丸く上がっていく、あれを下から見ていたと思います」

加地さんはのちに写真を見て、辺りが薄暗かったのはきのこのような形をした原子雲の傘の部分に覆われていたからだと思ったそうです。地上約500メートルの空中で炸裂した原爆は、直径3キロに及ぶ巨大な竜巻を現出したとされています。とにかく逃げなければー加地さんは走り出しました。

加地英夫さん:
「さぁてどこに逃げようか。大人が走ってるからその後を追って走りました。揺れてる家の横を通り抜けたらバーって倒れてきた。もうあちこちで家が燃えてる、倒れてる。倒れたらものすごい塵灰がウワーと立ち上がって、道がどこかも分からない。無我夢中で誰かが走ってるのが見えたらその後を追って、もう一生懸命、逃げることに一生懸命」

凄惨な姿、救いを求める人々

加地さんはなんとか近くの防空壕にたどり着きます。自身に大きなケガはありませんでした。でも防空壕に入ってくる人たちは全身血だらけ。皮膚は垂れさがり腹が飛び出ている。見たことのない人間の形相。

「『入れてください』『助けてください』って言ってからですね。後から入ってくる人は真っ赤な血をダラダラ流して走ってくるんです。来る人みんなもう…手がですね…手とか腹が飛び出してべらんとなってるんです。自分の皮膚がぶらんとした人たちが…『助けてください』って」

「何があった?何をした?…原爆とはわからないからですね。爆弾が落とされて直接当たったんだろうかと思うぐらいです。怪我して血がだらだら流れてる人たちが、もうどんどん…どんどん…」

防空壕を出て大浦にいる親戚のおばの所へ。途中にある県庁はごうごうと燃えていました。おばに「よかったねあんた!助かったね!」と言われたのが午後4時くらいだったと記憶しています。

燃える浦上

8月9日の夜、加地さんはおばと一緒に近所の学校のそばにあった防空壕で過ごしました。

「その日の晩はぐったりしてですね、一度だけ息苦しくなって空気を吸いに上がったんです。浦上の方を見たら…もうあの日の夜の浦上は火の海でした…。海が荒れて大きな津波が襲ってくるように火が浦上全体に襲い掛かっていた。シューっと上がっているのもあれば、下の方からもプシューっと上がってくる火もあって…波のように火がゆれてですね」

「浦上はもう全滅したなと思いました。学校はどうなっただろう。片付け掃除なんかで残っとる人がおったけど、あの人たちは避難しただろうか、逃げただろうかって浦上を見ていました」

加地さんが通っていた旧制瓊浦中学校は爆心地からわずか800メートルの場所にありました。原爆で校舎は全壊。学徒動員先で亡くなった生徒も合わせると、400人を超える生徒が命を落としました。

生まれ故郷・端島への帰還

加地英夫さん、被爆当時は12歳。おばのすすめもあり、数日後には両親の待つ生まれ故郷の端島に帰りました。

加地英夫さん:
「母親にしがみついて泣きました。助かったっていう気持ちと安心でですね。ひどかったーかあちゃーんと言ってから母に抱きついて泣いたんです。あの時涙が出て、涙が出て…嬉しくてですね。母は『今日帰らんかったら明日探しに行こうって、迎えに行こうってお父さんと話しとったよ』と言ってました」

被爆後の混乱、死の恐怖

故郷・端島に戻った加地さん。しかしその翌日から突然下痢と発熱に襲われます。心配した母親は柿の葉を煎じて飲ませ、看病してくれました。同じ頃、長崎から端島に戻った同じ中学の先輩が亡くなりました。元気だったのに…。自分も死ぬのだろうか…。

「助かったぞ俺は!と言っていたのが、死んだってきいて…。原爆でピカドンに当たった人、光に当たった人は死んでしまうと色んな評判が出てきてですね…俺もそうなるとかなと思っていました」

加地さんは9月に入って少しずつ体力が戻り始め、10月には瓊浦中学校の招集に行けるまでに回復しました。でもそこに、かつてのクラスメートの顔はありませんでした。

「半分は死んだと思います。6組だったんですけどね。1年6組で50人ぐらいいて、3分の1が直接被爆で死んで、3分の1が怪我とかやけどですね。あとの3分の1が無傷で助かったっていう。クラスではそんな風に言っていました」

焼け野原となった街で

終戦後、加地さんたち瓊浦中学校の授業は鳴滝の旧県立長崎中学校を仮校舎にして、長中との2部授業の形で再開されました。1947年には爆心地近くの山里小学校の校舎に移りました。校舎はコンクリート建てでしたが窓は枠組みだけ。冬は寒くてベニヤ板で覆って授業が行われました。校庭の掃除をすると、瓦礫の中から子供の骨が出てくることもあったー加地さんは著書にそう書き残しています。

英語の授業も行われました。加地さんは自分の英語力を試そうとアメリカ進駐軍の兵舎となっていた海星高校に、仲間と共に出向きます。そこで、アメリカ軍兵士との交流が始まりました。

「ハロー!って言ったらハロー!って。本を読んだらNO!NO!発音が違うっちゅうわけですね。これは勉強にいいかもしれんと思って兵隊と仲良くなったんです。向こうも英語の勉強しに来たなと思ったんでしょうね。終わったらよしよしと言ってチョコレートをくれる。これはいいな!なんて笑。生まれて初めてチョコレート食べましたよ」

最初はアメリカ人に対して警戒心を持っていた加地さんでしたが、コミュニケーションをとる中で次第に考えは変わっていきました。

「進駐軍ってちっとも怖くも何ともない。我々人間と、日本人と一緒じゃないかと思いました。行けばちゃんと英語を教えてくれる。向こうは向こうで自分の弟ぐらいに思ったかもしれんけど。別れるときはバイバイ!って言ってね」

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