ことしのノーベル平和賞を受賞する日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会。日本時間の10日、代表者が授賞式に出席します。「核のタブー」成立に貢献したと評価されたその歩みは、14歳の時被爆し、全身に大やけどを負った男性の叫びから始まりました。
山口仙二さん。14歳の時、爆心地から1.1キロ離れた三菱長崎兵器製作所大橋工場の裏で防空壕を掘っていた時に被爆。全身大やけどをした体にはケロイドが残りました。
1982年6月、山口仙二さんは被爆者として初めてアメリカ・ニューヨークの国連本部で演説しました。米ソ冷戦の時代、世界の終わりをカウントダウンする終末時計は『3分前』。核戦争勃発の危機が高まる中、国連初の被爆者の訴えは許可されました。
空席が目立つ議場でも山口さんは力強く訴えました。帰国後のインタビューで山口仙二さんは「色んな使命を体中に受け止めて一字一句にもう本当に命を懸けて発言をしてまいりました」と語りました。
【山口仙二さん 1982年第2回国連軍縮特別総会での演説より】
尊敬する代表の皆さん。私の顔や手をよく見て下さい。よく見て下さい。
世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ一人たりとも許してはならないのであります。
核兵器による「死」と「苦しみ」は私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約して下さるよう心からお願いを致します。
私たち被爆者は訴えます。
命のある限り私は訴え続けます。
ノーモア ヒロシマ!
ノーモア ナガサキ!
ノーモア ウォー!
ノーモア ヒバクシャ!
ありがとうございました。
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