終戦間際、沖縄県石垣島で米軍機搭乗員3人が日本兵によって処刑された石垣島事件。敗戦後、米軍による戦犯裁判で死刑になった7人のうち、2人は下士官だった。28歳の藤中松雄と26歳の成迫忠邦だ。藤中松雄の法廷での姿は確認できた。しかし、成迫忠邦は人の影になって顔がみえない。若くして命を絶たれた青年の顔写真を探していたところ、ある写真に行き着いたー。
◆教誨師の遺品にあった数枚の写真
「スガモの父」と慕われた田嶋隆純教誨師。田嶋教誨師の遺品の中に5枚の写真が入った封筒があった。写真の裏には何も書かれていないが、1枚は井上乙彦大佐、1枚は田口泰正少尉、1枚は藤中松雄一等兵曹。いずれも海軍の制服姿だ。そして1枚は背広姿の幕田稔大尉だった。つまり、5枚のうち4枚は石垣島事件で死刑になった人物の写真だ。残る1枚は若い男性で、真っ白の制服に身を包んでいた。目鼻立ちの整った綺麗な顔をしている。この青年が成迫忠邦なのだろうか。年齢には矛盾がない。
アメリカの国立公文書館が所蔵する石垣島事件関係の写真の中には、1947年12月3日に撮影された、法廷に並んでいる被告たちのグループ写真が4枚あった。その1枚に藤中松雄が写っていることは、遺族によって確認がとれている。その他の写真に写る人たちも、日本の国立公文書館にあった石垣島事件の被告人名簿や座席表などと突き合わせて、誰が写っているかは、ほぼ判明した。しかし、成迫が座っている位置はわかっても、残念ながら人の影になっていて顔が見えない。
◆判決を受ける被告の中に面影の似た人が
一方、3ヶ月後の1948年3月16日の判決日に撮影された写真の人物は、特定作業が行き詰まっていた。MPと弁護士に付き添われて立っている被告の写真が30数枚あるのだが、そのうち10枚近くは、誰なのか判らなかった。これらの写真は、顔がはっきり大きく写っているので、すでに判明している被告人席のグループ写真の顔と見比べて同じ人物を探せばよいのだが、3ヶ月が経過するうちに髪が伸びて印象が変わってしまうのと、座席に座っている写真と立っている写真ではカメラアングルが違うので、同じ人物かどうかを見極めることが難しかったのだ。そして、グループ写真で顔が見えない成迫は、写っていたとしても特定のしようがなかった。
そうした状況の中、石垣島事件に関係がありそうな、白い制服姿の若い男性の写真が出て来たのだ。判決日の写真のうち、まだ誰か特定できていない写真と見比べてみた。すると、華奢な雰囲気の若い男性の写真に目が留まった。男性は目を閉じていて、制服姿の顔と比べると、頬がすっきりしているが、顎や耳の形が似ているようだ。2枚の写真を見て成迫忠邦かどうか、確認できる人を探した。
◆成迫忠邦を直接知る人
成迫忠邦の故郷は、大分県佐伯市。山間にある木立という集落だ。地元の歴史を調査研究している佐伯史談会が発行した「佐伯史談210号」(2009年7月)に、木立在住の武田剛(こう)さんという方が、「成迫忠邦さんの思い出」という文章を残していた。
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)
私の村・木立に成迫忠邦さんという眉目秀麗な大学生がいたが、学徒出陣で戦争に行き、戦犯になり二十八才の若さで処刑された。その忠邦さんの痛恨の思い出を書きたい。私が小学校二~三年の頃、中学生の兄が自転車の後ろに乗せてくれて忠邦さんの家に連れて行ってくれた。忠邦さんは兄より二つ三つ年下で中学一年か、二年だったと思う。
武田さんの文章によると、成迫忠邦の父はすでに亡くなっていたが、元村長だった。実家は大きな農家で、母屋の前には二階建ての蚕室があり、中学の学校林を手入れする生徒が50人も寝泊まりできるほどの広さだったという。
◆500戸の村で唯一の大学生
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)
忠邦さんのお母さんが母屋の縁側でパインの缶詰をごちそうしてくれた。うまかったので汁まで飲み干した。その空カン一杯、忠邦さんは近くのくぬぎの木をゆすってクワガタを捕ってくれた。カンの中のクワガタのガサガサいう音がまだ耳に残っている。
私が中学になった頃、道でばったり忠邦さんに会った。日本大学の角帽をかぶっていた。五百戸の村で大学生はたった一人だったと思う。忠邦さんは満鉄に行った兄のことをたずねてくれ、角帽をぬいで私の頭にかぶせてくれた。その頃小学生だった私の家内は忠邦さんが学校に来てオルガンを弾いたのを覚えているという。白いズボンをはいていたそうだ。
戦況が悪化し学徒出陣が始まると、成迫忠邦は海軍を志願したという。出征が決まると、成迫家は地元で指折りの見事な杉山と、近所の人が大事にしていた名刀とを交換して、持たせたそうだ。
◆県職員の採用試験合格 祝いの席から連れ出され
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)
敗戦で忠邦さんは復員、私の留守中、戦死した兄のお悔やみに来てくれたという。忠邦さんは間もなく県職員の採用試験に合格。身内だけのささやかな祝いの席から戦犯として連行されたという。私は復員した忠邦さんに会うことはなかった。
国立公文書館に収蔵されている法務省の資料によれば、成迫がスガモプリズンに入所したのは、1947年6月30日。石垣島事件は、敗戦後すぐは表に出ず、密告から発覚したという事件なので、本格的調査が始まったのは1947年になってからだった。前後の文脈から推察すると、祝いの席から連行されたのは、その年の1月、福岡での取調べのためだったと思われる。
1948年3月16日に宣告された死刑判決の知らせは、成迫の故郷、木立村にかつてない衝撃を与えたという。木立村での戦死者は105人だったが、「戦犯で死刑」は、また別の凄いショックだったと、武田さんは書いている。すぐに助命嘆願の署名が行われ、ほとんど全住民の署名が集まり、当時、村長を務めていた武田さんの父がそれを持って上京したそうだ。しかし、住民たちの願いは叶わなかった。
◆再審も死刑は覆らず
(「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)
昭和24年(1949年)の三月初めに役場の村長宛に、みんながすがる様な気持ちで待った再審の結果が届いた。あの助命嘆願の効なく再審も死刑だった。父はそれをすぐに成迫家に届けねばならなかったが、中々出かけようとしなかった。夜、フスマ越しに父の嗚咽を聞いた。兄の戦死以来である。それも元村長の家に、老いた母のもとに。父も足が重かったのであろう。
武田剛さんの文章には、500戸の村で唯一人の大卒青年が戦犯となり、更に死刑判決を受けたという知らせに村中が衝撃を受け、悲しみに暮れた様子が切々と書いてあった。私は武田さんを探したー。
(エピソード72に続く)
*本エピソードは第71話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
#1 セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」
#2 文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」
#3「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”
#4 最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」
#5 戦争中“任地”で起きたことを話さなかった 「兵隊に行きたくないとは言われん」藤中松雄の100歳の“同期”
#6「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの
#7 法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”
#8 想像を超える“捕虜虐待”への怒り、法廷を埋め尽くす被告たち
#9 “最後の学徒兵”松雄と共にスガモプリズン最後の死刑囚となった田口泰正
#10 黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの
#11「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった
#12 墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件
#13 “石垣島事件”3人はどこで処刑された?
#14 石垣島事件の現場はここだった
#15 法廷写真の青年は誰?石垣島で調査
#16 法廷写真の青年は誰?男性のインタビューが残されていた
#17 19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は
#18 法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる
#19 石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない
#20 取り調べでは「虚偽の供述」強要も
#21 松雄の陳述書は真実を語ったもの?福岡での取り調べ
#22 陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」
#23 松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」
#24 これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書
#25 松雄が法廷で証言したこと
#26「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと
#27「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと
#28「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと
#29 密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?
#30 大佐から口止め「真実の事を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉
#31「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは
#32「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は
#33「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期
#34「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換
#35「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換
#36 大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか
#37「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い
#38 ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン
#39「言っていないことが書かれている」調書にあった酷い暴行と仇討ち
#40「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた
#41「父は何も語らなかった」直前で死を免れた兵曹長の戦後
#42「処刑は戦闘行為の一つ」命のやり取りをしている戦場で兵曹長は思った
#43「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち
#44「命令に従った」は通用しない問われる個人としての戦犯
#45 間違った命令に従った場合は・・・戦犯裁判で抗弁にならなかった日本の認識
#46「命令の実行者が絞首刑」石垣島事件の過酷な判決 ほかのBC級戦犯裁判はどうだった
#47 なぜ下士官までが極刑に 41人が死刑 石垣島事件の特殊要因は
#48 下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は
#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情
#50 捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”
#51 絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった
#52 嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは
#53 30歳の特攻隊長 嘆願書に書かれた「とりかえしのつかぬ不運」
#54 ”剣道の達人”特攻隊長は海戦で大けが 特攻出撃なく郷里に帰ったものの
#55 特攻隊長ですら恐怖を覚えた米軍の調査 真実を述べるために証言台へ
#56 証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」
#57 証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも
#58 獄中の特攻隊長「同郷人だ、死ぬまで一緒に居ようや」「よかろう」同室の友は九大生体解剖事件の大佐
#59 特攻隊長は“悟り”をひらいた 死刑囚の棟での信仰「人間は宇宙そのものだ」
#60 特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ
#61 死刑執行が決まった日「元気でゆけよ」「さよなら」特攻隊長はとぼけた顔をして
#62 特攻隊長の遺書「原爆で死せる人間を生かしてくれたら喜んで署名しよう」死刑執行前夜
#63 夜には死刑執行「この俺を殺さんとするのは空気を棒でたたく様なもの」不屈の特攻隊長
#64 死刑目前 特攻隊長の歌「わが最後の夜とも知らず 帰りつつあらむ老母思ふ」
#65 あと26時間の命と知った特攻隊長「人間その境遇になれば誰でもこんな心境に」
#66 今夜、絞首台に上る特攻隊長「人生は量にあらず、質にあり」最後の日に綴ったこと
#67 死刑執行まであと10時間「この先も最後まで私の全力を尽くします」特攻隊長の信念
#68 トルストイ「戦争と平和」に胸打たれた特攻隊長 遺書の最後は「元気に朗らかに仲よく」
#69「暴力の源は戦争を生む近代文化と個々の心にひそむ」戦犯たちの最期を見届けた教誨師が訴えた
#70 戦犯たちの「必死の思い」遺書をまとめたのは26人の仲間を見送った元死刑囚
#71「眉目秀麗な村で唯一人の大学生」26歳で処刑された下士官の姿を探して
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。
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