「ジュリアナー、トウッチョー、デーデーデーデデデ、デーデーデーデデデ、ハウーッ♪」というと、もうアレですね、バブルの象徴、というかお立ち台というか、ジュリ扇というか、要するにアレなんですが、じつは「バブルの象徴」じゃありません。本当はバブル崩壊後のヤケクソ踊りだったのです。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)

91年にスタート

1991年から94年にかけてのたった4年間、港区芝浦で文字通り「一世を風靡」したのが巨大ディスコティーク「ジュリアナ東京」でした。

入場料は男性5000円、女性4500円でした(平日料金)

一度に最大2000人が入るという大フロアに、ボディコンの女性と、ソフトスーツの男性が集まり、夜な夜な世紀末のダンシングが繰り広げられたものです。
この頃の芝浦・海岸地区は「ウォーターフロント」と呼ばれ、港湾設備や倉庫を改造した「芝浦GOLD」や「O'BAR2218」などの有名ディスコが存在していましたが、その最終地点が「ジュリアナ東京」だったといえるかもしれません。

「ジュリ扇」に「お立ち台」

ジュリアナ東京の「華」といえば、高さ130cmの「お立ち台」でした。ここに数々の女性たちが競って乗り、ジュリ扇(じゅりせん)と呼ばれる羽根つきの扇子を振り回しながら、夜通し踊り狂ったのです。女性のスカートは日に日に短くなり、ボディコン(ボディコンシャス)の服はパッツンパッツンになっていきました。

93年にはほとんど「上半身裸」のようなお姉さんまで登場したといいます。

93年には「お立ち台の上に人がいすぎて危ない」「公序良俗を乱す」と警察の指導が入り、お立ち台は撤去されましたが、その後も、100cmに低くした「クリスタル(サイド)ステージ」上で「プロのダンサーが踊る」とコンセプトを変えて存続されました。

「ジュリアナ専属ダンサー」を目指して、多数の女性がオーディションを受けたといいます。

「全盛期は92年と93年」という不思議

しかし、ちょっとおかしなことがあります。
ジュリアナスタートの91年、すでに株価においても地価においてもバブルは崩壊していました。
ジュリアナ全盛期の92年から93年にかけては、不動産や金融関係でなくとも不景気の波をかぶっていた頃で、すべての人にとって、仕事でもうまくカネがまわらず、就職も厳しくなり「なんだかおかしいな」と思い始めていた頃でした。

見た目の派手さとは裏腹に、踊る人びとの心の中はどこか憂鬱でした(経験者談)

その憂さを晴らすように、人びとは「ウォーターフロント」に集い、踊り狂いました。
バブルの象徴どころではありません、バブル崩壊後のヤケクソ踊り、あるいはバブルの残り火ダンス、それがジュリアナの実体だったのです。
だから当時それを分かっていた(一部の)人は、ジュリアナのことを、我を忘れるための「仮面舞踏会」、あるいは「ええじゃないか」になぞらえました。
あれから、30年が過ぎ、そのあたりのディテールを忘れてしまったメディアが、絵柄の派手さゆえに「ジュリアナ=バブルの象徴」としたのでしょう。

閉店後のジュリアナはどこにいった

ぴたり30年前、94年の8月31日、夏休みの最終日にジュリアナは閉店しました。時代はもうバブルどころではありません。はっきりと不景気。「失われた〇〇年」の入口でした。

「ジュリアナ最後の日」には全国から1万人を超える人びとが集まったといいます。

その日のジュリアナは、すべての人に無料開放され、閉店を惜しむファンが全国から集まりました。最寄りの山手線・田町駅芝浦口から、入場待ちの列がずらりと続き、入れない客が続出。一説には翌日昼過ぎまで入れなかった人のアンコールの声が続いたといいます。
閉店後、ジュリアナの跡地は、ほぼそのままの形で、スポーツ・セレクトショップ「A.S.R.芝浦」となりました。

ディスコ時代の造りそのままに、跡地はスポーツ・セレクトショップとなりました。

写真を見ればお分かりの通り、この同じところに人びとが並び、出入り口の脇には黒服が立ち、ドレスコード・チェックが行われていたのです。そして、数々の男女は浮かれながらゲート内に吸い込まれていったのでした。

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