宮城県の女川原発2号機が、東日本大震災の発生以来13年半ぶりに再稼働しました。半世紀にわたり父と共に原発に反対してきた女性は、今も反対の声を上げ続けています。
女川原発再稼働 反対する女性は
10月29日、東日本大震災の発生以降運転を停止していた東北電力・女川原子力発電所2号機の原子炉が起動した。震災被災地の原発としては初の再稼働となった。同じころ、敷地前には反対派の住民らが集まり、シュプレヒコールをあげていた。
その中のひとり、宮城県女川町に住む阿部美紀子さん(72)。約50年前から原発反対の声を上げ続けてきた。
阿部美紀子さん
「避難を強いるほど危険な代物。原発がなければ避難をしなくてもいい。だから原発は必要ない」
宮城県の牡鹿半島にある女川町。美紀子さんは、この町で生まれ育った。72歳の美紀子さん。仕事は引退し、今は自宅でのんびり過ごすことが多いという。最近のお気に入りはクロスワードパズルだ。
阿部美紀子さん
「頭の体操。前からクイズは好き」
女川町には、2011年3月11日、東日本大震災の津波が押し寄せた。約1万人が暮らしていた町は、800人以上が犠牲となり、7割の住宅が流失した。美紀子さんも自宅を流され、一時避難生活を余儀なくされた。
町の中心部から直線距離で7キロ余り。原発は、女川湾を望む半島の中ほどに建てられている。
女川原発 半世紀前の反対運動
阿部美紀子さん
「これが原発が建つ前の浜の風景です」
今、原発が建つ場所には、かつて風光明媚な砂浜があった。音の鳴る砂「鳴り砂」の浜として知られた、鳴浜だ。
鳴り砂の研究者(当時)
「長い歴史でできた砂で、人工的に作るということはほぼ不可能に近い」
1967年、この美しい浜に原発の建設計画が持ち上がる。原発の建設に強く反発したのが、安全性と生業の継続に不安を募らせた地元の漁師たちだった。
地元の漁師たち
「おらの海に(原発の)水を流したらいけないからな」
「なにが安全なんだ。原子力発電所は100%安全だと言い切れますか」
反対派の先頭に立ったのが阿部宗悦さん。美紀子さんの父親だ。
阿部美紀子さん
「写真あまり残っていないけど、津波で見つかった父の若い頃の、原発反対闘争し始めた頃の写真だと思う」
女川で船問屋を営んでいた宗悦さん。弱い者いじめが嫌いな人だったという。
阿部美紀子さん
「女だからこうしろ、女だからこうするなということはなかった。好きな事をやれと言われた」
女川原発の建設に親子で反対してきた、阿部宗悦さんと美紀子さん。実は宗悦さんは、東日本大震災発生の33年前、地震による原発事故の危険性を指摘していた。
阿部宗悦さん(1978年)
「マグニチュード7や8も想定される地震地帯である以上、放射能という問題を抱えながら心配される原子力発電所というものを、建設を許すということは到底できない」
阿部美紀子さん
「ここに写っているものくらいしか父親と一緒に写っている写真はない。23歳で家に帰ってきて、25歳くらいのときかな」
東京の大学に進学していた美紀子さんも卒業後、実家に戻り宗悦さんらの運動に加わった。
阿部美紀子さん
「私は写真を撮られるのが好きではなくて、よくマスコミが来て写真を撮ると私はいつも逃げていた。スパイではないかという噂が立ったくらい」
反対派の団体が発行した機関紙「鳴り砂」。題字は宗悦さんが書いたものだ。
原発建設の予定地となった、あの浜にちなんで名づけられた。今も受け継がれ、累計発行回数は311回を数える。
多くの仲間が支えた美紀子さんらの反対運動。当時の仲間とは今も交流がある。原発から1.5キロの場所に住む阿部七男(75)さんも共に闘ったひとりだ。
阿部七男さん
「若かったね」
阿部美紀子さん
「一生懸命やったもんね」
漁師だった七男さん。今も原発反対の考えは変わっていない。
阿部七男さん
「とにかく自分たちばかりではなく、のちの子どもたちとかのことを考えると、反対するほかなかった」
「例えて言ったら内戦」賛成派と反対派に二分された町
根強い反対の声があった一方、原発建設を望む声も多かった。当時、財政難にあえいでいた女川町にとって、原発の誘致は起死回生の一手でもあったのだ。
町は次第に賛成派と反対派に二分されていった。
当時をよく知る人がいる。町の職員から町議となり9期務めた木村公雄さん(88)。
元女川町議 木村公雄さん
「例えて言ったら内戦。武器のない闘いだった」
木村さんは長年、原発の必要性を主張し続けてきた。水産業のほかに目立った産業がなかった女川町。半島に位置し、離島も多い町は、インフラ整備にも多額の費用がかかっていた。
元女川町議 木村公雄さん
「地方自治の本旨は、やはり財政がひとつの判断基準。仮に誘致ができなかったとしたならば、女川の町というものもないだろう。空気がいいだけ、自然が豊かなだけ。ただ住んでいるだけの小さな町になっていたのではないか」
今、町の自主財源である町税収入のうち、約85%を占めるのが固定資産税だ。その8割以上を負担しているのが東北電力。財源の多くは原発頼みとなっている。
また「電源三法交付金」と呼ばれる国からの交付金が、これまで40年余りで300億円近く交付されている。昨年度も7億円が町にもたらされた。
女川町の須田善明町長は、原発がもたらしたのは税収だけではないと話す。
女川町 須田善明町長
「もともと女川は渇水でたびたび悩まされる地域だった」
原発では核燃料を冷やすため、大量の水を必要とする。町は、東北電力が37キロ先の川から引いている水道設備を共同所有し、町民の生活用水として活用している。
女川町 須田善明町長
「渇水期に水がなくなるということがなくなった」
町に様々な恩恵をもたらすと期待された原発は、約10年にわたる論争の末、建設が決まった。
阿部美紀子さん
「これからどういう闘いをして、原発を止めていけばいいのかなという思い」
美紀子さんら反対派の運動も次第に縮小していき、女川は原発の町として歩み始めていた。
東日本大震災 その時 原発は
そんな中、宗悦さんの危惧は、福島で現実のものとなる。東日本大震災の津波により、東京電力・福島第一原発で重大事故が発生した。
震度6弱の揺れに見舞われた女川原発にも危機が迫った。
当時の女川原発の敷地高は14.8メートル。地震で1メートルの地盤沈下があり、そこに高さおよそ13メートルもの津波が来襲したが、あと80センチで浸入を防いだ。
1号機の設計当時、津波の予想高は3メートル程度とされていたが、東北電力の社内委員会は過去の津波を調査・検討し敷地を高く設定していたという。
ただ危険がなかったわけではない。
当時、牡鹿半島付近の海は干潮に近い時間帯だった。あの日、満潮時と干潮時の潮位差は90センチ以上あり、仮に満潮の時に同じ津波が来ていれば、敷地に入っていた可能性もあった。
阿部美紀子さん
「この辺だと思いますね」
震災前に美紀子さんの自宅があった場所。女川を襲った津波は、美紀子さんたちが暮らす家も飲み込んだ。
阿部美紀子さん
「がれきだらけで何もなかった。私たちの地区の集会所があったが、その上にも車が乗っていた」
町の外に避難することになった美紀子さんは出発当日の朝、がれきだらけの町に父・宗悦さんとあるものを掲げた。
「福島を教訓に」
流れついた股引に記した。
阿部美紀子さん
「私も口が悪いから、父親に『旗立てるぞ』と言って2人で来た。悔しくて悔しくて。福島がああいう状態になっているのに自分は何もできない。原発に女川でずっと反対してきた、建てさせたくなかった者として、これからどうするのだろうという怒りと自分が何もできない焦燥感」
宗悦さんは震災発生の翌年、86歳で亡くなった。
阿部美紀子さん
「みんなに『宗ちゃんの言ったとおりになったな』と言われた時に『こういう福島にしたくなかった、見たくなかった』と言っていた。何もないんです。がれきだらけで。でも訴えたかった。がれきのど真ん中で、本当に原発反対を叫びたかった」
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