ミャンマー国軍が2017年8月25日に西部ラカイン州でロヒンギャの人々に対する大規模な掃討作戦を行い7年が経過した。国際NGOのオンタリオ国際開発庁(OIDA)の報告によると、2万4000人以上のロヒンギャ住民が残虐な手段で殺害された。数カ月間で73万人以上が隣国バングラデシュに避難を強いられ、100万人ともいわれる世界最大規模の難民キャンプが形成された。2022年には米国が当時のミャンマー国軍による行為が「ジェノサイド(集団虐殺)」にあたると認定した。
私は2015年からミャンマー西部ラカイン州中部の集落や国内避難民キャンプへ通いロヒンギャの人々を交流を続けてきた。2017年8月25日から国軍らによるロヒンギャに対する武力弾圧で隣国へ大量の避難民が発生した報道に衝撃を受け、2018年2月に初めてバングラデシュを訪れた。
(写真家・新畑克也)
100万人が密集生活 小屋づくりのため木はなくなった
東京・品川区と同じ広さに33カ所の難民キャンプがあり100万人近くが密集生活を強いられている2018年2月 バングラデシュ・コックスバザール県 この記事の写真
果てしなく広がる難民キャンプ。緑が豊かだった丘陵地帯に73万人以上のロヒンギャ難民が一気に押し寄せ、燃料となる木々は乱伐された。難民はもちろん、地元住民の暮らしも一変した。現在コックスバザール県内の約24平方キロメートル(東京都品川区の面積と同等)の地域に33カ所の難民キャンプが形成され、100万人近くが脆弱な土地で、密集した簡易シェルターの暮らしを強いられている。
シェルターを作るための資材や燃料となる木材を運ぶ男たち2018年2月
ミャンマーから大量の避難民が押し寄せた時期から半年が経過した2018年2月の時点でも国軍の掃討作戦は続き、バングラ側へ逃れて来る人が後を絶たなかった。シェルターを作るための資材や燃料となる木材を男たちが担いで来る。別の場所に目を移すと国際NGOの職員が避難民の家族のリストを作成するために駆け回っていた。
2018年2月険しい丘を見上げると幼いロヒンギャの子どもたちと目が合った。明らかに雨が降れば地滑りや土砂崩れなどが起きるだろう。だが彼らは他に行く場所がない。
夫を殺されたという女性があまりに多く…
2週間前にバングラデシュに逃れて生き延びた母子 2018年2月ブティダウンから2週間前にバングラデシュに逃れて生き延びた母子。難民キャンプには夫を殺されたという女性があまりに多く、私はどんな感情で向き合えば良いのか、どんな言葉をかけるべきなのか、解らなかった。「現場の状況を見てみたい」という安易な気持ちで日本からやって来た自分を恥じた。カメラを向けるとパニックを起こして泣き叫ぶ幼子にも何度か遭遇した。「銃だと勘違いしてるのかもしれないね」と言われ、お詫びするしかなかった。
井戸で水をくむ 2018年2月難民キャンプには国際NGOが整備した井戸も数多く見られた。あまりに急速に井戸が掘られ、受け入れコミュニティの井戸が枯れてしまったり、ヒ素汚染に悩まされるという事象も起きた。安全な水がないと私たちは生きていけない。
2018年2月難民キャンプの商店が立ち並ぶエリアで若い母親に物乞いをされた。ロヒンギャの社会で物乞いは恥ずかしいこととされ、ミャンマーの集落でも子どもたちがふざけて「お金ちょうだい」と言ってきたのを見た大人が厳しくしかりつけていたし、保守的なイスラム教徒である彼らにとって若い女性が見ず知らずの外国人男性に声を掛けて物乞いをする行為自体が普通ではなく、彼らが故郷で壮絶な体験をしこの難民キャンプで困窮している状況を理解して苦しくなった。幼子の虚ろな表情が頭から離れない。
食糧、医療、教育など様々な人道支援が不足する中、難民の多くは母国への安全で尊厳のある自発的な帰還を求め続けているが、彼らの切実な願いが実現する兆しはない。2021年2月にミャンマーで起きた軍事クーデターによる情勢悪化、2018年末からラカイン州やチン州の一部でラカイン族の武装組織アラカン軍(AA)と国軍の衝突が激化している。
シェルターにお邪魔して取材をさせてもらっていると、組まれた竹の向こうから女性たちが訝しげな表情でこちらの様子をうかがっていた。女性たちは基本的にシェルターに閉じこもり、あまり外に出ることはないという。私はミャンマーや日本にロヒンギャの友人がいて、日本から会いに来たことを伝えると、「敵ではない」と心を許してくれたのか、少し穏やかな表情になってお茶を出してくれたり、故郷やキャンプでの話を聞かせてくれた。
国軍兵士に右足を切り裂かれた男性 命は助かったがまともに歩くこともできなくなってしまった 2018年2月マウンドーから逃れて来た男性と子どもたち。国軍兵士に右足を切り裂かれ、命は助かったがまともに歩くこともできなくなってしまった。故郷の村も焼かれてしまったと。その様子を想像しただけで胸が詰まった。
2024年5月頃から占領を進めるアラカン軍による、ロヒンギャが多く暮らすラカイン州北部ブティダウン、7月頃からはマウンドーで市街地へのドローン攻撃による殺人、住民の追放や放火、略奪などの行為を地元住民やロヒンギャの活動家、複数の国際人権NGOが指摘しており、劣勢に立つとされる国軍側も国籍すら剥奪しているロヒンギャ住民を徴兵し「人間の盾」に使用しているという。
再び多くの人々が命懸けで国境を隔てるナフ川を渡り逃避しなければならず、粗末なボートが転覆し溺死する人も後を絶たない。「大量虐殺の第2波」と言われるほど現在ロヒンギャが再び深刻な危機にさらされている。頼みの綱であるバングラデシュでは2024年7月以降の学生デモにより15年に及んだハシナ政権が崩壊し不安定な情勢が続く。
「日本からよく来たね」とサトウキビを分けてくれた年配の男性。ミャンマーで長年差別や迫害を受け、移動制限などを課せられてきたロヒンギャだが、それでも故郷のマウンドーでは家や畑を持ち、家族や友人たちと食事やお茶、娯楽を愉しみ、モスクで祈りを捧げ、人間らしい営みがあった。しかし密集した難民キャンプではプライバシーもなく、誰もが狭くて暗いシェルターに押し込められ鬱々とした日々を過ごしている。
迷い込んだ象がシェルターを踏みつぶした
クトゥパロン難民キャンプに野生の象が迷い込み、ロヒンギャ難民1人と地元住民1人が亡くなった 2018年2月2018年2月22日早朝、クトゥパロン難民キャンプに野生の象が迷い込み、ロヒンギャ難民1人と地元住民1人が亡くなり、30名近くが負傷した。私が夕方に現場を訪れた時にはまだ辺りは手の付けられない状況で騒然としており、シェルターを破壊された少女が呆然と立ち尽くしていた。もともとこの地域はジャングルでここで暮らしていて行き場を失った象も被害者だが、何故ロヒンギャは幾度も破壊され、奪われて、追放されなければならないのか。
難民キャンプ内で在日ロヒンギャの方が設立した学校 2024年4月ロヒンギャ難民危機が起きた当初は「未曽有の人道危機」と報じられ世界の注目を集めたが、その後の新型コロナウィルスの世界的感染拡大、ミャンマーでは軍事クーデーターによる新たな人道危機や経済危機で混迷をきわめ、ウクライナやパレスチナ自治区ガザ地区などで起きている凄惨な状況で、ロヒンギャ難民問題は過去のように扱われ、支援は減り関心は急速に薄れている。
またバングラデシュの難民キャンプで2019年8月25日に「虐殺2年目」の大規模な難民による抗議集会を当局がコントロールできなかったことがきっかけでキャンプ内にフェンスが設置され、モバイル通信が遮断(その後緩和された)、メディアの取材も厳しくなり、現地の状況や難民当事者の声はより伝わり難くなっている。その中で複数の頼もしいロヒンギャ難民のフォトジャーナリストやビデオグラファーたちが活躍し、限られた国際NGOはしぶとく支援を続けている。
現在は難民キャンプでの自由な撮影ができなくなってしまったが、2023年と2024年には日本最大のロヒンギャコミュニティの在る群馬県館林市で暮らすロヒンギャの方々に同行してバングラデシュを訪れ、彼らが支援するキャンプ内の学校の子どもたちの様子や交流を記録し続けている。
難民キャンプの子どもたちと 2024年4月撮影私の夢は、一刻も早くバングラデシュの難民キャンプや日本で出逢ったロヒンギャたちの故郷であるミャンマーに平穏な日々が訪れ、彼らと一緒に現地を訪ねることだ。彼らが誇らしそうに教えてくれるラカイン北部の美しい光景をこの目で見て、豊かな文化を体験し、美味しい料理のおもてなしを受けたいと思っている。
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新畑克也
1979年広島県呉市生まれ。東京都在住。2010年に初めて訪れたミャンマーに魅了され、同国へ幾度も通い、旅先での人々との出逢いを写真に収め始める。 2015年より西部ラカイン州でロヒンギャの村を訪れたことをきっかけにロヒンギャやラカインの問題に関心を持つ。以降は主にラカイン州やバングラデシュの集落、難民キャンプで撮影を続け、日本最大のロヒンギャコミュニティの在る群馬県館林市では定期的に写真展を開催している。
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