SDGs達成期限の2030年に向けた新たな価値観、生き方を語る今回の賢者は霊長類学者の山極壽一氏。40年以上アフリカで野生のゴリラを研究してきたゴリラ研究の第一人者だ。その方法は非常に独特で、朝から晩までゴリラの群れと行動をともにするというもの。現在、国立総合地球環境学研究所所長。霊長類学の経験をもとに進化史をさかのぼって探究し、人間の社会や文化のあるべき姿について模索している山極氏に、2030年に向けた新たな視点、生き方のヒントを聞く。
ゴリラを知ることは人間を知ること 人間の本質は「共感力」
――私たちが向き合わなければならない課題の解決に向けた提言をお願いします。
山極壽一氏:
「“私たち”を主語に助け合う世界をつくる」。
――「私たち」を主語に?
山極壽一氏:
自己実現、自己責任っていうのが日本では蔓延しちゃっていて、私が私がという風潮になってしまったわけでしょ。本来大事なのは「私」ではなくて、「私たち」なんだよね。「私たち」を主語にして考えるという視点を作らないと、この世界はみんな競争、効率、生産性ばっかりが蔓延する、ギスギスした世界になってしまう。
――この番組ではSDGsの17項目から課題を選んでいただいているのですが…。
山極壽一氏:
細かな課題を一つ一つ数値を上げて解決していくのではなくて、全体を一つのものとして視野に入れないと、本当の解決にはならない。
僕はSDGsの17の目標の中で一番足りないのは文化の問題だと思う。文化というのは意識や人間の体の中に埋め込まれた価値観なんだよね。でも、体に埋め込まれた価値観というのはなかなか外に出せないわけです。つまり数値にできない。文化って価値観そのものだから、それを変えていかないと世界のものの見方が変わらない。
――そうすると、数値目標を掲げる17項目というのは?
山極壽一氏:
一つ一つ捉えても意味がない。世界中の国が一致して進んでいくためには、目標を作らなくちゃいけないから、仕方がないことなのだけど、一方で忘れてはならないのは、それを全部ひっくるめた形で我々が持っている価値観というものをこの時代に変えていく必要があるということなんだよね。それが真の意味でのSDGsだと思います。
――ゴリラの研究は、どんなきっかけで入られたんですか。
山極壽一氏:
人間を知ろうとしたときに人間だけを見ていたら、人間のことはわからないなと思ったからです。人間って昔から人間であったわけではなくて、人間ではない何者かから進化してきたわけだよね。
そうすると、人間の本質は何かっていうのはずっと過去にさかのぼったときにわかってくるんじゃないか。人間を知るためには人間を一旦離れて外から眺めてみないとわかんないだろうと。
ゴリラの群れの中に入ってゴリラのように行動してみて初めて、ゴリラの気持ちがだんだんわかるようになる。そうすると、人間の本質が見えてくるんです。
――どういうものが見えるんですか。
山極壽一氏:
人間の本質って僕は共感力だと思う。人間以外の動物の集団というのは、ゴリラもチンパンジーもそうなんだけど、自分の利益を高めるために群に属している。だから、自分の利益が落ち始めたら、その集団を離れるわけです。
ところが人間って自分の利益を落としてでも、その集団に尽くそうとするんです。これが人間の持っている共感力の成せる技だね。それは相手の気持ちがわかって、相手が困っていることがわかって、何とか相手を助けたい、自分が犠牲を払ってでも相手が喜ぶ姿を見たいっていう気持ちから発しているんだけど。
ひょっとしたら将来自分も相手の立場に立って困ることがあるかもしれない。そのときに助けてもらいたいなと思うだろう。そこまで人間は考えるわけ。それが人間の社会力に繋がるわけだよね。
みんなが自己犠牲を払ってでも集団のために尽くしたいと思うから、集団の力が生まれる。そのおかげで、人間はゴリラやチンパンジーと他の動物にはできない、社会力を持つことができるようになった。
――人間の欠点も見えるんですか。
山極壽一氏:
欠点はいっぱいあるわけだよ。例えば言葉。言葉を持つことによって人間が他の動物と区別されるって誰もが思っているわけだよね。でも、言葉って一体何のために現れたのか。何のために現れたと思う?
――共感力をわかりやすくするため?気持ちを伝えるため?
山極壽一氏:
間違い。相手の気持ちを知るために、言葉だけを手がかりにしていますか。
――違いますね。
山極壽一氏:
顔の表情とか、接触とか、匂いとか、いろんな材料で相手の気持ちを知るわけじゃない。言葉ってそれを裏切ることが多いよね。言葉で喋られちゃうと本当にそう思ってるの?みたいな。
僕は言葉を喋れないゴリラとずっと付き合ってきたけど、全然問題なく気持ちはわかり合えていますよ。言葉なんか喋らなくていいわけ。
山極壽一氏:
言葉って情報なんだよ。情報を伝えるために現れた。ゴリラってずっと一日中みんなまとまって顔を合わせて動いているから、情報を伝え合う必要がないわけ。
人間はゴリラが住んでいるアフリカの熱帯雨林をずっと古い昔に出て、サバンナで暮らし始めたわけだよね。サバンナって怖い肉食獣がウヨウヨしているから、弱い人たち、つまり身重の女性とか、幼い子どもたちは安全な隔離場所に隠れていて、屈強な者が遠くまで出かけていって、食糧を採集して帰ってこなくちゃいけなかったわけだよね。
そうすると情報交換する必要が出てくるわけ。持ち帰ってきた食物をどこでどのようにして捉えたのかっていうことを何かによって示さなくちゃいけないわけじゃない。情報が必要になってくるのは、人間が離れたり、くっつきあったりということが頻繁に行われるようになってから。
言葉って、どこにでも持ち運びできる。遠くにあって見えないものを言葉によって伝えることができる。過去に起こってしまって自分が体験できなかったことを、それを体験した誰かが言葉によって伝えてくれることはあるんです。それによって知識や世界が広がるわけ。言葉ってそういうものなの。情報なんですよ。
今の教育では「生きる力」はわいてこない 大切なのは?
人類は言葉や文字を使うようになってから、ある問題に直面したと山極氏は言う。
山極壽一氏:
僕はアフリカの人たちと一緒にゴリラを調査したんだけど、アフリカの狩猟採集民でピグミーと言われている人たちは、最近まで文字を持っていなかった。文字は人間の本質的な文化を作るために役立っていないんです。
言葉だって人間が小さな地域共同体で一緒に仲良く過ごすうえではいらない。それ以上の人たちと情報交換をするために言葉は生まれ、契約や商売をするために文字が生まれた。そういう中で、僕らはだんだんと書かれた文字に依存するような社会を作ってきてしまった。
言葉によって相手の気持ちを知ろうとしたり、言葉によって決定しようとしたり、人々の関係を言葉によって表現しようとしたり。それは100%できるわけじゃないのに、言葉に頼り過ぎてしまっているから、言葉にすごく依存するような形にどんどんなってしまっている。
山極氏は研究のためアフリカへ通う中で、学びや教育の本質に触れたという。
山極壽一氏:
僕が付き合っていた狩猟採集の人たちっていうのは基本的には教えません。だけど、子どもたちがある年齢になったら、自然の中に連れていって、自然の仕組みや植物や動物、虫や鳥をそれぞれ手に取って、どうやってそれを捕まえてどうやって料理して、人間にとってどういう意味があるかっていうことを教えるわけだよね。
自然っていうのは毎日毎日変化するわけ。変わりゆく環境の中で、自分が習得した知識を応用しなくちゃいけないってことだよね。変化に瞬時に適応していく直観力の中で、それを果たすっていうことを個人個人が覚えてくわけで、それがそもそもの学びだったと思う。
都市ができ、産業革命が起こり、時間を単位にして、生産物を作るようになると、それに従事する人間も時間単位で管理するようになるわけだよね。工場で働く人たちを管理することと、スケジュールに従って真面目に働く人たちを作らなくちゃいけないわけ、教育で。それが国民国家の教育なんです。
今の教育制度っていうのは、そういう国民国家の教育制度にずっと則っているわけ。だけど、今これだけ気候変動が起こり、世界がどんどん変わっていく中で、みんなが同じように均一な教育を受けて、本当に世界で活躍できる能力が育つんだろうか。むしろ、個人個人の能力に合った、あるいは個人個人の立てた目標に合った教育を個別にしてあげた方が、将来、自分の能力を発揮できる世界を見ることができるんじゃないかと思う。
今の子どもたちにとって重要なのは、生きる力なんだよね。狩猟採集時代、いろんな自然の中で出会いがあって、毎日毎日違う課題を乗り越えなければならない。それも1人じゃなくてみんなで。その中で生きる力を涵養をしてきたわけだよね。
だけど、今は生きる力を教えていない。ただ正解のある問題を同じように解いて、できるだけ早く正解に行きつくことだけが求められている教育をしているわけだよね。そうすると生きる力ってわいてくるわけないじゃん。
僕らの子ども時代、田んぼに行ったり、川に行ったりして魚釣ったりあるいはヘビを捕まえたり、ドジョウすくいしたり、いろんな生物と交わり合いながら遊んでいたわけだよね。生きる力って遊ぶ中で、一緒に生きていく力を作るものなんだよね。
自分1人で生きる力なんてできません。みんなで生きる力を作らないとダメなんだ。そういう機会を与えられてない。それが問題じゃないか。しかも、生きる力はコンクリートジャングルの中で、変わりばえのしない風景の中で作られるものじゃなくて、毎日毎日変わっていく自然の中で鍛えられるものなんだよね。そういう機会を子どもたちにもっと与えてやらないといけないんじゃないかっていうのが僕の意見。
「みんなが違うからこそ面白い」 理想は都市と地方を往来する「多地域居住」
――大学の授業で学生に意見を求めても、意見を言いません。ほかの人と違いが出てしまうのを嫌がっている節があるんですが。
山極壽一氏:
それぞれが違っているってことを尊重し合いながら、違う意見を出し合うのが本来の話し合いであって、自分が気がつかなかった新しい解決策が出てきたり、発想ができたり、新しい未来が描けたりするわけでしょ。
人間がそれぞれ違っているということが、人間社会が発展してきた大きな力なんです。今あらゆるものがAIに依存するようになって、均質な世界になっているわけです。みんなが同じ方向に誘導されていって、同じような結果に満足するようになってしまう。そうすると、それはすごく弱い体制なんですね。
みんなが違うのが当たり前で、みんなが違うからこそ面白いことができるっていうふうにならないと本来いけないんじゃないかと思う。
ゴリラとともに暮らすことで自然の中で生きることの大切さを身をもって感じてきた山極氏の、現代社会に対しての提言とは。
――今の日本を考えると東京など都市の価値観や豊かさが頂点にあって、それを地方に真似させていくといいますか…。
山極壽一氏:
都市が駄目なんですよ。みんな箱物じゃないですか。長方形の箱がくっついたようなものが家じゃないですか。そこにみんないるから、同じような暮らしのデザインになっちゃうわけです。
地域に行けば、箱物じゃないものがいっぱいあるわけですよ、人間の暮らしの中にね。そういう中に接しているといろんなものに対処できるようになる。世界中の人口の半分以上が都市に暮らしています。地方はどんどん貧しくなっていく。それは都市の価値がどんどん地方に委譲されて、都市の価値で地域が測られる。しかも都市の下請けを地方に引き受けさせるようになっているわけです。逆に、地域の価値を都市に持ってくるようにしないといけない。
そのためには、都市の人が自分の住んでいるところだけじゃなくて、地域にもう1か所、2か所、居住先を作る。多地域居住というのをこれから推奨すべきだと思っているんだよね。地域の人たちが異質の人を受け入れながら、その地域の発展をデザインしていくことができれば。特に若い人たちにどんどん行ってほしいと思うわけ。
――都市に住んでいる若者は地方で得たものを都市に持ち帰って、都市を変えていけるということになるわけですよね。
山極壽一氏:
都市にいたら何でもかんでも安定志向になるので、変わらないものをどんどん作っていくわけです。しかもルールに従うもの、操作できるものを作っていこうとする。でも、自然というのはルールに従わない。予想外のことが起こるというのが本来の自然なのね。
都市にいても、自然の猛威というものがいつか来るということを予想しながら生きていけるっていう、まさにそれが生きる力になるわけでね。そういう能力を育てないといけないと思う。それは子どもたちだけじゃなくて、我々大人も持たなくちゃいけないんだけど。
人間の生活には効率化できるものと効率化できないものがある。何でも測って時間を単位に効率化しようとしてしまったことに、大きな過ちがあるわけです。効率化できない、しかも対面しなければできないものをもっと増やしていかないと、生きる力はわいてこない。
生きる力は1人ではできない。仲間と一緒に何かに向かうことによってできるものだから。それをずっと長い進化の過程で人間は作ってきた。それを子どもの頃から体験させなければいけないと僕は思います。
(BS-TBS「Style2030賢者が映す未来」2024年10月20日放送より)
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