長崎市の長崎港から船でおよそ40分、かつて石炭で栄え、今は無人島となっている端島は海に浮かぶ外観が大正時代に建造された戦艦土佐に似ていたことから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
■小さな岩礁から埋め立てられ石炭の採掘で日本の近代化を支えた
もともと、端島は小さな岩礁でしたが、石炭を掘って出たボタを明治期に数次に渡って埋め立てました。その埋め立てを繰り返したことによって軍艦のような形をした島になりました。
端島の隣の高島で西洋式の石炭採掘に成功した三菱が1890年(明治23年)に端島を買い取ったことで本格的な開発が始まりました。
隣の高島では蒸気機関を用いて近代的な採掘が始まりましたが、さらに技術が発展して最終的には電気によって石炭を掘るという技術が端島で確立されました。
端島の石炭は良質で鉄をつくる際の原料炭として福岡県の八幡製鉄所に送られ、日本の近代化を支えました。
■海底炭鉱の技術が端島で確立
端島周辺の炭層は傾斜が急なため坑道も複雑でした。
地下数百メートルまで立坑を掘った後、横に進み炭層にたどり着くと下へ下へと掘り進みます。深い所では地下およそ1000メートルに達しました。
端島の中でもどんどん掘る場所が深くなっていくということで、海底炭鉱を奥深く掘っていく技術がここで確立されました。
■生活人口密度は東京都の9倍 その後閉山へ
石炭の増産に伴い島の人口も増加。狭い土地を活用するため、鉄筋コンクリートによる高層住宅が次々と建てられました。福岡ドーム1個分にも満たない小さな島にピーク時には5000人以上、生活人口密度は当時、東京都の9倍といわれました。
しかし、価格の安い海外炭の輸入や石炭から石油へのエネルギー革命の影響から端島炭鉱は1974年に閉山。従業員とその家族は次々と端島を離れ、3か月後には無人島となりました。
■閉山から35年後に上陸観光 2015年に世界遺産登録
閉山から35年後の2009年、再び端島に人が訪れるようになりました。
三菱から島を譲り受けた長崎市が見学ルートを整備。一般の観光客も上陸できるようになりました。
2015年には「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。
その一方で、島内のコンクリート建造物の劣化が進み島全体の保全整備が大きな課題となっています。
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