中越地震発生から20年。土砂崩れの影響で水没した旧山古志村の木籠集落で暮らしている松井キミさん80歳。元区長だった夫の思いを受け継ぎ、記憶と記録を未来につないでいます。

草木が生い茂り、埋もれたままになっている家。ここには旧山古志村の木籠集落がありました。

この家に住んでいたのが松井キミさんです。

【松井キミさん(80)】「一生懸命頑張って建てたんだよ、お父さんと。子ども4人を育てながらその隣でね。私とお父さんの汗の結晶かなと思って」

木籠集落で育ち、結婚。その後、家族で牛やニシキゴイを育て暮らしていました。

大好きなふるさとは、20年前の10月23日変り果てました。
【ヘリコプターから当時のリポート】「崩落した土砂で川がせき止められています」

暮らしていた木籠集落は、土砂崩れで川がせき止められ、震災ダムとなり、集落の半数の14棟が水没しました。

地震の2年前に建てたばかりだったキミさんの自宅もその1軒でした。

地震後、集落の一角に集団移転し、キミさんたち家族も新たな生活を始めました。

ただ、土砂に埋もれた我が家を『震災の記録』として残すべきと訴えていたのが当時の木籠集落の区長でキミさんの夫 治二さんでした。
【松井治二さん】「地震の怖さ、凄さ、大変さを分かってもらうのが災害にあった者の一つの定めかなと」

治二さんの声が届き、キミさんの自宅を含む2棟は、中越地震を伝える『震災遺構』として残されています。

【松井キミさん】「お父さんがいれば、多分ちょっと家の手入れ、周りの草刈りぐらいはしたかもなと思いながらも」

夫の治二さんは、地震後、存続が危ぶまれた闘牛の復活にも力を注ぎました。

その後起きた災害では被災地に足を運び、「必ず復興できる」と自らの体験を交えて励ましました。

しかし…
【松井治二さん】「それ(死)から目をそらさずに俺はもう少し生きられるとかどうだかというのは全く考えることはなく、自分に与えられたものは天命だと思ってしっかり受け止めて、その中で自分がやれる時間をつくるかということですよ」

この取材のおよそ3か月後、夫の治二さんは胃がんのため亡くなりました。75歳でした。

【松井キミさん】「(治二さん)意外と頑固でしたよ。一本気の。意外と自分の言ったことは曲げない」

山古志のために命を燃やし続けた治二さんが残したもの、それが震災遺構のすぐそばに建てた交流施設『郷見庵(さとみあん)』です。

【松井キミさん】「この郷見庵ができたら、お前はここの当番だぞ、自分らで一生懸命行政にお願いして建てた建物だから、だからお前はそうだよって言われて休んじゃならないよって」

郷見庵は木籠を応援する支援者らが野菜を販売し、休憩処としても運営しています。2階は震災や復興の歩みを伝えるスペースになっています。

キミさんは次女の智美さんと毎日欠かさず店番をしています。

【キミさんの次女 篠田智美さん】「やっぱり来てくれる人を本当に大事にするというか人を大事にする両親だと思っていますよね。」

郷見庵は山古志を応援する人たちが訪れ、そして松井さんから支援を受けた人が集まる場となりました。20日、中越地震20年を目前に木籠を支えてくれた人を招いて感謝祭が開催されました。

【松井キミさん】「懐かしい人だ!何年ぶりに来てくれた!」

郷見庵の裏の畑で育てた里芋を芋煮にしてふるまいます。

【参加者は】「よく復活したよな、涙が出る。思い出すと。良くなったと思います」

【キミさんの次女 篠田智美さんん】「1000年続く山古志であればいいと本当に思うので、今はこうやってみんなと一緒に色々イベントしたり行事したり、一日一日の一歩が多分1000年続いていくんだろうなっていうふうに感じています」

【松井キミさん】「(地震から)20年になって木籠明るくなったねって、良くなったねって。人数は少なくなった。やっぱり高齢化だし、これは致し方ないし、またここの子どもも集落も発展し、郷見庵も大勢が来るようになれば何よりです」

地震から20年…
これが、キミさん、そして夫が思い描いてきた山古志の姿かもしれません。

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