筆者の目の前にあるのは106ページにわたるドキュメント。1997年の山一証券の「自主廃業」に至った経緯が詳細に綴られた転落の記録である。
作成したのは、まだ「第三者委員会」という言葉さえない時代に、真相究明に立ち上がった社員の調査チームだった。その物語は、元読売新聞の清武英利氏の名著「しんがり 山一証券最後の12人」で克明に記されている。
当時、司法記者クラブに所属して東京地検特捜部を取材していた筆者は、「調査報告書」の内容に衝撃を受けた。
特捜部の捜査でも判明していない核心に迫る関係者の証言や、損失隠しの新事実が随所に盛り込まれていたからだ。「調査報告書」は山一元社員ら100人以上からのヒアリングをもとに、破たんに至る生々しい経緯を浮き彫りにした。
「しんがり」たちを弁護士として支え、実際に「調査報告書」を執筆したのが、当時42歳で民暴対応が専門の“マチベン”国広正弁護士であった。
この中で国広は、当時は絶対的な権力者だった「大蔵省」の責任を厳しく指摘した。これに対して周囲は「大蔵省に睨まれて大変な目にあうのでは」と心配した。
しかし、国広にとって書かないという選択肢はなかった。当時、国広はどんな思いで大蔵省の関与にまで踏み込んだのか、今だから明かせる本音を聞いた。
大蔵省の責任に踏み込む
山一証券の「社内調査報告書」が公表されたとき、世間が驚いたのは、トップエリート官庁「大蔵省」の監督責任にも切り込んでいる点であった。
経営破たんの原因はもちろん山一証券にあるが、絶大な権限を持つ監督官庁である大蔵省がなぜ山一の「損失隠し」を黙認したのか、目をつぶってきたのか、報告書は大蔵省の関与についてリアルに描き出していた。
1991年は激動の年だった。大手証券による「損失補てん問題」が発覚し、野村証券や日興証券では広域指定暴力団「稲川会」への不正融資も明らかになり、野村の権力者だった田淵節也会長、田淵義久社長、日興の岩崎社長ら大物が相次いで辞任したのである。
その4大証券の一角、山一証券は「東急百貨店」との間で、やっかいなトラブルを抱えていた。巨額の損失を、どちらが引き取るのか激しく対立していたのだ。
「東急百貨店」は、バブル投資で損害を出していたが、「飛ばし」を引き受ければ、一定の利息を受け取ることができるため、山一と高い利回り保証契約を結んで、積極的に「飛ばし」を引き受けていたのだ。
しかし、1992年からの法改正で「損失補てん」が禁止されるため、山一は契約を履行できなくなり、「東急百貨店」から損失を引き取るよう、催告状が届いていた。
「(飛ばし)の有価証券を簿価で引き取り、利息分を含め318億円を返せ。返済しない場合は東京地検特捜部に行平社長らを詐欺罪で告訴し、メディアに全容を公表する」
さらに山一は、「東急百貨店」から民事訴訟を起こされる恐れもあった。
両社の交渉は難航していた。この対応にあたっていたのが、東大卒のエリートで“山一のプリンス”と呼ばれた副社長の三木淳夫であった。1992年1月、三木は、MOF担(大蔵省担当)時代から知り合いの大蔵省松野証券局長を訪ねた。そこで「東急百貨店」の件を相談したところ、松野から、ある示唆を受けていたという。
当時の大蔵省は絶対的な権力を持つ監督官庁であり、証券局長の助言は事実上の「行政指導」と受け止めるのが常識だった。
この件について三木は調査チームのヒアリングに対して、驚くべきやりとりを明らかにした。
三木副社長によると、大蔵省の松野証券局長とのやりとりはこうだ。
松野局長「東急百貨店と揉めているそうですが、どうするのですか。大和証券は海外に飛ばすそうですよ」
三木副社長「海外は難しいのではないですか」
松野局長「うち(大蔵省)の審議官が知っているから、聞いてください」
松野と話をしたあと、三木は大蔵省から山一本社に戻り、松野の言葉を当時社長だった行平らに伝えて、対応を協議した。その結果、やはり松野の言葉は、含み損を「飛ばし」で処理するよう示唆していると解釈した。
その場にいた山一の経営陣の受け止め方はこうだった。
「株価低迷でこれ以上、含み損を取引企業に飛ばし続けることができなくなった以上、大蔵省の松野局長は、今後は発生した『損失』を『海外』に移し替えて『簿外で処理』せよと示唆している」
そのため、同社は「東急百貨店」とは裁判などで争うのではなく、いわゆる「飛ばし」によって損失を引き取る方針に大転換したのである。
松野から示唆された方針に沿って、「飛ばし」処理を終えた三木は、大蔵省の松野にこう報告したという。
「私どもは資金繰りなど海外に飛ばすのは自信がございませんので、国内で処理することにいたしました」
そのとき三木は、松野から「ありがとうございました」あるいは、「ご苦労さまでした」と言われたという。
さらにその後、三木は、あらためて大蔵省に出向いた際に、松野からこう言われたと証言している。
「山一にすればたいした数字ではない。ひと相場あれば(含み損が解消されて)解決ですよ。何とか早く解決してください」
結局、「東急百貨店」との取引で生じた損失は、山一の「ペーパーカンパニー」に隠され、「約2,600億円」に上る「簿外債務」の一部として沈んだのである。
国広によると、これら大蔵省松野局長の関与について、報告書に盛り込むかどうか、調査チーム内部でかなり議論したという。松野は否定するだろうし、何と言っても当時の大蔵省は、絶大な権威と権力を持っていたからだ。
しかし、委員長の嘉本は「書かない選択肢はない」と判断し、国広も当然それに同意した。
「松野さんの部分はたしかに物証がなかったんです。三木さんは松野さんから『飛ばせ』と言われたいうが、音声があるわけでもない。相手は大蔵省、しかも証券局長。松野さんは否定するに決まっているし、実際に国会でも否定しています。
しかし、『これは書かないと駄目だ』と強く感じました。これは調査チーム全員一致です。なぜなら、三木さんが作り話をするような動機は全然ないんです。もし、反論があるなら大蔵省にやってもらえばいい。議論はしましたが、書かないという選択肢はなかったんです。三木さんはそんなことをあえて創作して、想像で言えるわけないんですよ」(国広)
最終的に国広は「東急百貨店問題」について、大蔵省側のヒアリングはしてないという但し書き、注釈をつけた上で、最終的に5ページにわたって項目を立てて展開した。
そして国広は最後の文章をこう締めくくった。
「なお本件については、その後、大蔵省からは何らの問い合わせ、検査等も行われていない」
「とんでもない株式が期末にはどこかへ飛んでいく」
違法な「利回り保証」に端を発し、顧客の損失を引き取る判断をして「あてのない相場回復」を待ちながら、山一証券の「簿外債務」は拡大し続けた。
しかし、その間に、何度も損失を開示しようという動きもありながら、その都度、同社の経営サイドがつぶし、問題の「先送り」が繰り返された。
1990年代の半ばにかけて、一部の役員も「簿外債務」の存在を知ることになる。
1993年8月13日、山一証券は専務ら8人の首脳が秘密会議を開き、表の帳簿には書いてない「ペーパーカンパニー」などを含めた損失について、対応を話し合った。
しかし、結論は出なかった。
報告書によると、出席者はこう証言する。
「会議で一括償却の話が出たが、どうやってやるのか、誰にも答えがなかった」
「決算も状況も微妙で、経営の判断としては『先送り』するしかないだろうという内容で、その場の雰囲気もそうだった。会議の主旨が何であったのか、疑問に思った。わが社特有の、結論の出ないファジーなままの会議だった」
1995年になると、役員の一部から「すべてを明らかにして、徹底的に議論して対策を立てるべき」という意見が持ち上がったという。
そこで常務以上の役員を対象にした、泊まり込みの会議が千葉県船橋市の研修センターで計画されていたという。しかし、当時社長だった三木のひと言で、会議は実現しなかった。
「現状の経営体力では厳しい。まだやめておいう」(三木)
山一は、経営破たんを食い止める可能性があった最後の機会を逃し、「飛ばし」によって生じた「簿外債務」を隠し続けることになる。損失が表面化することを避けていたのである。
当時、「飛ばし」の受け皿となっていた会社の元経理部長は、TBSのインタビューにこう証言した。
「期中でみれば、とんでもない株式が期末にはどこかへ飛んでいく。外に出す書類には一切、出てこない。評価損のある株式の受け皿をみつけるのは、証券会社の営業マンで、社長も知っている話だから、安心して受けてくれと言われた」
損失は、バブル経済崩壊により株価の低迷が続いた結果、最終的には山一が買い取らざるを得なくなった。そこで、今度はその損失を「ペーパーカンパニー」や「海外子会社」に移し替え、「粉飾決算」をしていたというのが、実態だった。
「飛ばしをやっていくうちに、株がどう処理されたか、わからなくなっていった。何度かやっていくうちに、心配はないという感触を得てしまい、頭も使わない、実におかしいやり方だった。また次の「飛ばし先」がなく、猛烈な損失が出ている株式を抱え込むようになった」(受け皿会社元経理部長)
こうした危機的な状況を多くの山一首脳が知ってはいたが、損失の処理を決断できずに「見て見ぬふり」をしていたのだ。最高実力者だった“山一のドン”行平や、“山一のプリンス”三木はどう考えていたのだろうか。
もし山一証券が、破たんを食い止める機会があったとすれば、それはいつだったのか、国広はこう指摘する。
「そもそも損失が生じるような営業をしなければよかったと言えますが、すでに、損失が生じていたことが前提にすれば、やはり最終的には、1995年に実施するはずだった『千葉県船橋市の研修センターでの役員合宿』がラストチャンスだったと思います。ここで、全部をさらけ出していれば、違った展開になった可能性はあるのでは」
「もちろん、大きな犠牲は伴い、非常に痛い目に遭う。例えば大赤字の決算で、リストラも避けられない。経営陣が総退陣など、いろいろあったかもしれないが、公表するという判断はあったのではないでしょうか。そこ(1995年)を超えたら難しいと思います」
「相変わらず経営陣は『神風が吹いて、株式市場が回復する』と期待していた。しかし、株価は下がる一方。そうすると結果論ですが、救う手立てがあったかどうか、そこで助かったかどうかわかりません。もちろん、それより前に隠ぺいを決めた1991年の『ホテルニューオータ二』と『ホテルパシフィック東京』の2回の秘密会議の時点で、膿を出す決断をしていたら、助かる可能性はあったと思います」(国広)
やがて「飛ばし」が山一の経営にどんな影響を及ぼすのか、具体的に話し合われた形跡はなかった。拡大する『簿外債務』の問題は常に『先送り』された。
しかし、「飛ばし」は損失を見えないようにしているだけで、結局損失が消えてしまうはずはなく、ブーメランのように戻ってくることは明らかだった。
歴史に「もし」はないが、1990年代の半ばまでに、損失を公表して処理を実施していたなら、大きな代償を払ったかもしれないが、違った展開になった可能性はあったのではないだろうか。
野澤社長は知らされていなかった
東京地検特捜部が山一証券の「損失隠し」をすでに捜査していた1997年6月30日、山一証券の社長の三木は、あろうことか株主総会でこういい放った。
「当社につきましては、法令に違反するような行為は一切ございません」
すでに信用不安が広がり、山一の株価は急落、資金調達も難しくなっている状況で、会場の株主は激怒した。
「万が一、違反があった場合は詐欺で告訴するぞ!」
「仮定の質問にはお答えできません」
「おまえら無能の塊!そんなとこ座って恥ずかしくないのか!」
株主総会のニュースを見ていた東京地検特捜部の幹部は、筆者にこう話した。
「三木は代表権を持っていたにもかかわらず、トップの行平の方針に抵抗しなかった責任は重いわな。まあ、三木は能吏だよ」
東京地検特捜部はのちに行平前会長と三木前社長を「総会屋」への利益供与および、破たんの原因となった「飛ばし」処理で「約2600億円」の「簿外債務」を隠したとして、証券取引法違反(虚偽記載)と商法違反(違法配当)で逮捕、起訴した。
特捜幹部が言ったように、1998年3月28日の一審判決、東京地裁の金山裁判長は、行平には執行猶予のついた「懲役2年6か月」を言い渡した。
ところが、三木には執行猶予をつけずに「懲役2年6か月」の実刑判決を下したのであった。
金山裁判長は、会長だったドンの行平よりも、行平に抵抗しなかった社長の三木の方が罪が重いと判断したのである。(のちに二審で三木にも執行猶予が付いた)
「問題解決を先送りしたため、会社は自主廃業することになり、被告人らの行為は強い非難に値する」(金山裁判長判決)
その三木は調査チームのヒアリングに誠実に応じ、真相解明に全面的に協力した。しかし、行平からの証言は得られなかったという。その後、2人が財界の表舞台に再び立つことはなかった。
話を戻す。1997年8月11日、「総会屋」小池隆一事件の責任を取って、行平前会長、三木前社長ら11人の役員が総退陣、社長を引き継いだのは専務の野澤正平だった。
野澤は「行平ー三木ライン」から「社長を押しつけられた」という被害感情もあった。
なぜなら、野澤が「約2600億円」の「簿外債務」の存在を初めて知ったのは、社長就任から5日後の8月16日だった。「自主廃業」の3か月前だ。常務で企画室長の藤橋から知らされた野澤は、ショックでしばらく立ち上がれなかったという。
立て直しを託された野澤は、問題の矢面に立ち、忙殺されることになる。ただちに、会社の生き残りをかけて、危機回避に動き出す。まず10月6日にメインバンクの「富士銀行」に「約2,600億円」の含み損を報告し、救済を求めた。
野澤は併行して、スイスの金融大手「クレディ・スイス」との提携も模索した。山一証券は「クレディ・スイス」が東京証券取引所の外国部に上場した時の主幹事をつとめ、親密な間柄にあった。そうした関係からも外資では本命と見られていたが、交渉は実らなかった。
(「クレディ・スイス」は2002年に東証上場廃止)
11月14日、事態は急変していく。富士銀行から「全面協力ではなく、担保に見合った範囲で力になりたい」との回答があった。つまり協力はできないということだった。これで山一は頼みの綱を失った。
「日本の金融業界では仕事こなくなるよ」
とうとう山一証券は、会社を存続させるためには大蔵省と日銀にすがる以外、方法がなくなった。
その日11月14日の夕方、野澤は大蔵省の長野証券局長を訪問、「簿外債務」の存在を初めて伝え、生き残りへの支援を求めた。
すると、長野局長は野澤社長にこう告げた。
「もっと早く来ると思ってました。(倒産した)三洋証券とは違うのでバックアップしましょう」
野澤はこれを「大蔵省は、再建を支援するという前向きな姿勢を示してくれた」と受け止めた。帰りの車の中で、同行した藤橋常務からも「よかったですね」と声を掛けられた。
実際、11月15日、16日にも藤橋常務や経理部長が大蔵省に赴き、会社再建策や含み損の状況を説明している。17日には野澤社長、藤橋常務が証券取引等監視委員会(SESC)にも含み損の報告をしている。
ところが、11月19日、野澤が大蔵省を訪問すると、長野局長の態度は一変していた。そして、こう通告した。
「感情を交えずにタンタンと言います。『自主廃業』を選択してもらいたい。金融機関としてこんな信用のない会社に免許を与えることはできない」
長野が伝えた「自主廃業」というのは、会社が自分から事業活動を止めろということだった。会社は消滅、従業員は全員解雇しなければならない。
一方で、「会社更生法」という手段であれば会社は存在できる上、従業員も残して、法的に再建をめざすことが可能だった。これより前、11月3日に経営破たんした「三洋証券」でも適用されていたからだ。
しかし、山一証券の場合は、『飛ばし』による粉飾決算という犯罪が絡んでいたため、法的整理の「会社更生法」は認められなかったのだ。
たった5日前まで、「支援する」との姿勢にとれた長野局長の態度は一変していた。
いきなり山一に「自主廃業」を迫ったのである。野澤はあまりの手のひら返しに、言葉が出なかった。
だが長野は淡々と続けた。
「大蔵省は11月26日に山一の簿外債務について発表します。同時に会社も発表してください」
野澤は、頭を下げて泣きついた。
「局長、何とか助けてください」
わずか5日間に何かがあったのだろうか。
1997年11月は日本にとって金融危機のクライマックスだった。「三洋証券」「北海道拓殖銀行」「山一証券」「徳陽シティ銀行」・・・毎週のように次々に銀行や証券会社が破綻していた。なかでも「北海道拓殖銀行」は戦後初の都市銀行の破たんとなり、金融市場をパニックに陥れた。マーケットには激震が走った。
その「たくぎん」の破たんが発表された11月17日、長野は大蔵省で緊急の対策会議を開いた。関係者によると長野は会議に先立って、山一の資産状況を精査していた日本銀行にも相談。しかし「違法行為があるところを救済などできるはずがない」と相手にされなかったという。
そこで長野は、日銀の救済が無理なら「会社更生法」は使えないか、部下と検討したが「規模が大きすぎる。違法行為もあるし、東京地裁は認めないだろう」と結論づけた。そもそも「飛ばし」を隠ぺいしていた以上、会社の存続を許すわけにもいかなかった。選択肢を一つ一つ精査していくうちに「自主廃業」しかなかったのだ。
1997年11月19日、山一証券株は、終値で「65円」まで下落。終値が100円を切るのは上場以来のことだった。
11月20日、山一証券という会社存続の唯一の方法だった「会社更生法」についても、案の定、東京地裁から門前払いだった。
「『飛ばし』という違法行為があるため「会社更生法」は使えない」との見解だった。
野澤は再び、大蔵省に赴いて長野局長と面会した。
「なんと支援をお願いできませんか、26日の発表は延期していただくわけにはいかないでしょうか」
すると長野はこう迫ったという。
「自分が野澤社長と会ったことが代議士周辺から漏れている。(なので26日ではなく)24日にも発表するので準備してくれ。これは内閣の判断です」
この「内閣の判断です」という「長野発言」の根拠がのちに問題となる。
当時のTBSニュースはこう伝えている。
『村岡官房長官は「内閣として自主廃業の方針を決めたことはない」と述べ、長野局長の発言内容を強く否定した。
この点について長野局長は、「総理や大蔵大臣に報告したものだ」と曖昧な説明をしており、村岡官房長官との食い違いを見せている』
村岡は記者会見で「内閣の関与」を「否定」したのだ。ただし、これはあとの話であって、「最後通告」を突きつけられたときの野澤は、長野の言葉を額面通り受け止めるしかなかった。情報が漏れていることを理由に大蔵省が発表を「2日も前倒し」したことに、驚きを隠せなかった。
支援どころか、大蔵省は3連休の最終日、11月24日に「自主廃業」を公表すると言っているのだ。
11月21日は連休前の金曜日だった。アメリカの格付け会社「ムーディーズ」が山一の社債の格付けを「最低ランク」の「ダブルB」に引き下げた。「投資には不適格」という烙印を押され、連休明けからの資金繰りは一段と厳しくなった。
野澤らは「これで万策つきた」と認識せざる得なかった。
連休初日、11月22日の土曜日、日本経済新聞は朝刊1面トップで「山一証券 自主廃業へ」と世紀のスクープを放った。(21日夜に日経テレコムオンラインでも速報)
このスクープが「新聞協会賞」を受賞したことは言うまでもない。
ほとんどの役員、社員は、この日経新聞の記事で初めて「自主廃業」を知らされた。野澤はぎりぎりまで逡巡し、役員会にも報告していなかったからだ。
「勤労感謝の日」の振替休日、11月24日の月曜日、山一証券は午前6時から、「臨時取締役会」を開き、「自主廃業」に向けた営業停止を決議した。
そして、午前11時半から東京証券取引所の会議室で、あの記者会見が始まった。
野澤正平社長は「私ら(経営者)が悪いんです。社員は悪くございません」と号泣した。
この会見は、平成の金融危機を象徴するシーンとして、国民の記憶に刻まれることになった。
野澤にとっては、大蔵省の長野局長に助けを求めた際、いったんは「支援する」と明言していたのに、一転して「自主廃業せよ」と突き放されたような気分だった。
もちろん「自主廃業」とは名ばかりで、山一側の自主的な判断が入る余地はなかった。
国広は、報告書に盛り込んだ野澤社長と大蔵省とのやりとりの信憑性には自信があった。
「野澤さんのような社長が大蔵省に出向くときは、必ず秘書がついていくが、野澤さんの場合は、藤橋常務が同行していました。藤橋常務は野澤さんと長野局長のやりとりを、全部ノートに記録していたのです。しかもその場で正確に。いわゆる『藤橋ノート』は、何月何日、何時にどこで誰といつ会ったのか、具体的に記されていました。その記録は極めて信憑性が高かったと思います」(国広)
周りは国広を心配したが、ぶれなかった。
「大蔵省のことを書いたら『日本の金融業界では仕事がこなくなるよ』と言われました。でも、もともと金融機関の仕事などないから関係ない、と思っていました。
大蔵省だけでなく、ここまで書くような弁護士は金融業界にとってもウェルカムじゃないよと。
報告書を書いたのは私であることはみんなわかってますから、ずいぶん心配されました。そうは言っても、大蔵省が山一の「含み損」に目をつぶっていた、黙認していたというのは、社員や国民に知らせるべき極めて重要な事実。国家的な犯罪に近いようなことだから、書かないわけにはいかないと思いました」(国広)
しかし、時代は金融ビッグバン、国広には想定外の展開となった。
「自分としては、大企業の事件は山一限りでおしまい、またマチベンに戻るものと思っていました。しかし、世の中が大きく変化したわけです。山一証券のあとも大企業がバタバタ潰れて、むしろその事実調査や原因究明の仕事の依頼がくるようになりました。高度経済成長のままだったら、私は外されたかも知れないが、金融ビッグバンにより大企業が倒れて、まったく違う世界に時代が変化した。想定外でしたが、私に「不祥事調査」というニーズが生じたんです」
「報告書を書いたときは、今後も金融機関の仕事をしようなんて、これっぽっちも考えていませんでした。山一の調査報告書は金融の仕事というより、職を失った社員たちの無念の思いに動かされて書いたもので、一つの企業がいかに失敗、転落していったかという『ルポルタージュ』だったと思います」(国広)
山一証券の粉飾決算事件と並行して、東京地検特捜部は野村証券や第一勧銀をめぐる「総会屋事件」から発展した「大蔵省接待汚職事件」の捜査を進めていた。
“聖域”と言われていた大蔵省に家宅捜索が入り、証券局課長補佐のキャリア官僚1人と、銀行局金融検査官のノンキャリら3人が収賄の罪で起訴された。
本来、公平に行われるべき大蔵省の金融検査がゆがめられていたことが浮上、大蔵省の「護送船団体制」は揺らぎはじめていた。
山一の「調査報告書」公表から10日後の1998年4月27日、大蔵省は大手証券4社や第一勧銀など金融機関から、飲食やゴルフなどの「接待」を受けていた大蔵省職員112人の大量処分を発表した。山一の破たん処理などに関わり、同期(1966年入省)のエースと言われた長野元証券局長は減給処分を受けて、大蔵省を退職した。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
■参考文献
山一証券「社内調査報告書」社内調査委員会、1998年
国広正「修羅場の経営責任」文藝春秋、2011年
清武英利「しんがり 山一証券最後の12人」講談社、2015年
西野智彦「日銀漂流」岩波書店、2020年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
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