筆者の目の前にあるのは106ページに上るドキュメント。これは1997年の山一証券の「自主廃業」の経緯を克明に綴った「社内調査報告書」である。まだ「第三者委員会」という概念さえない時代、企業の破たんを記録した初めての報告書と言われた。元読売新聞の清武英利氏の名著「しんがり 山一証券最後の12人」には、調査チームの物語が克明に記されている。
この調査チームで「調査報告書」をとりまとめたのが、当時、42歳の無名のマチベンにすぎなかった国広正弁護士(38期)であった。国広はそれまでミンボー専門だったが、4か月にわたる徹底的な調査によって、タブーなしの調査報告書を書き上げた。
当時、司法記者クラブで特捜部を取材していた筆者は、公表された「社内調査報告書」の内容を、衝撃を持って受け止めた。特捜部の捜査でも明らかにされていない関係者の重要な証言や、債務隠しの新事実が随所に盛り込まれていたからだ。
国広は、「調査報告書」に何をどう書き込むべきか、どんな思いで日々格闘していたのだろうか、水面下で繰り広げられた知られざる舞台裏を聞いた。
ーー国広さんが「調査報告書」を書き上げていく過程で、とくに心がけたことはどんなことでしょうか。
国広弁護士:
4か月間、「しんがり」の人たちと寝食をともにしながら、「調査報告書」に向き合いました。会社に泊まり込んで、前例やノウハウもない中で、100人以上からのヒアリングを行った結果、経営陣が「飛ばし」を決め、隠ぺいを続け、大蔵省がどう関与したのかなど、生々しいファクトがわかってきました。
報告書にもありますが、すでに1990年に顧客企業のファンドの状況を示す資料には、「JUNP」「エンドレスにつなぐ」「疎開」「金利を載せ疎開」などの用語が使われ、「飛ばし」をうかがわせる記述がありました。また法人営業部門では、複数の企業間で「飛ばし」を繰り返すうちに、出発点が不明になる状況を「宇宙遊泳」とも呼び、回復が見込めない損失を「ヘドロ」と呼ぶなど、隠語が頻繁に使われていました。
しかし、報告書でいきなり「飛ばし」「簿外債務」と書いても普通の人にはわからない。そこで、社員の人に「私が理解できなければ、読む人に分かるような.報告書は書けないので、私のような素人でも理解できるよう、かみ砕いて教えてください」と開き直り、とことんまで説明を聞きました。
その結果、非常に複雑な取引スキームをビジュアルで分かりやすい「飛ばしマップ」に落とし込みました。その上で、一般の人が理解できるように表現を工夫していきました。
金融の知識がない素人にも読んでほしかったんです。破たんに至った事実、全体像を誰が読んでも理解できる記録として残したいと思いました。
「にぎり」とか「飛ばし」とは何かという業界用語の解説と、背景事情にページを割いて、冒頭にもってきたのは、そういう思いなんです。
ーー山一証券の直前に経営破たんした「三洋証券」は法的整理の「会社更生法」が認められました。山一についても名前を残して従業員も解雇しない「法的整理で再建をめざす」という選択肢はなかったのでしょうか。
国広弁護士:
当時の「会社更生法」などの法律は、「国際金融情勢」にも大きな影響を与えかねない山一の経営破たんのような大規模事案に適用することは困難だったと思います。
そもそも、裁判所としては「飛ばし」「簿外債務」という「粉飾決算」につながる犯罪に対して、法的整理はできないという判断だったと思います。また、山一が海外に「簿外債務」を飛ばしていたことが大きかったと思います。
海外に飛ばしていた損失の多くは、最終的に中国系の銀行が受け皿になっており、当時はタイのバーツ切り下げを発端にした「アジア金融危機」の時期でした。そんな状況で、山一を「法的整理」にすると、その中国系の銀行に大きな打撃を与え、「アジア金融危機」の火に油を注ぐことにもなりかねない状況でした。
これを回避するためには、大蔵省としては、山一に「自主的に」全部買い戻させるしかなかった。そのために「自主廃業」という形をとったのかもしれません。
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報告書には記載されていないが、東京地検特捜部の調べなどによると、その中国系の銀行というのは中国銀行、「BOC(バンクオブチャイナ)」であることがわかった。
実は山一証券の「簿外債務」のうちの約半分、「1,000億円」以上が、「バーレーン」や「アムステルダム」などを経由して、「BOC」に沈んでいたのである。同社は中国最大の商業銀行で、世界各地に拠点をもって、華僑マネーと中国をつなぐ金融センターの中心だった。
仮に「会社更生法」が適用されて、債券債務が「凍結」されていたら、「BOC」は「1,000億円」以上の損失を抱える可能性があったのだ。
もし「BOC」が破たんした場合、海外の金融市場への影響は大きく、国際的なデフォルトに発展する恐れもあった。
当時の検察幹部は「BOCの簿外債務は現地法人の『山一オーストラリア』を経由した取引だった。大蔵省は、金融危機の国際的な連鎖反応を食い止めるため、『国際金融秩序』を維持することを最優先した」と振り返った。
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「何しろ時間がかかった」一つの間違いも許されなかった報告書
ーー国広さんは、どんな思いで「調査報告書」に取り組んでいらっしゃったのでしょうか。また山一証券社内では、どういう受け止められ方をされていたのでしょうか。
国広弁護士:
経営破たんした企業について経緯を調べて、「調査報告書」を公表した例は、過去にありませんでした。そのため、前例に縛られることなく、書くべきだと思ったことを制約なしに書けたのが、よかったんじゃないでしょうか。
誰もこんな詳細な報告書を出すとは想像していなかったと思います。当時は、『第三者委員会』という言葉さえない時代です。私としても誰にも忖度する必要のない「1回限りの勝負」と思っていましたので、怖いもの知らずでした。
まわりは「大蔵省のことを書いたら大変な目に遭う」みたいに心配していましたが、気にしませんでした。
こんなことがありました。12月末から調査を始めたので、1月頃に山一証券の顧問弁護士のところに報告に行ったんです。
「社内調査委員会」のスタンスを一生懸命に説明したのですが、鼻であしらわれました。顧問弁護士の先生からは、「こちらは自主廃業の手続きで忙しい。こんな大変なときに、社内調査委員会などに何ができる?どうせ隠ぺいするような報告になるのでしょう」みたいな感じで言われました。
立派な顧問弁護士「先生」からすると、どこの馬の骨かわからない駆け出しの弁護士が報告に来たわけですから、バカにされても当然だったかも知れません。
だからあとで「調査報告書」をお読みになってびっくりされたと思います。こんな詳細な「調査報告書」が出るとは予想されてないでしょうから。私にとっては、かえって「完璧に無視された」のが、口出しされずに済んで、良かったんだと思います。
ーー調査報告書の公表時期は、やはりこだわりがあったのでしょうか。また実名で記載された経営陣や大蔵省からの反論も予想されたと思いますが。
国広弁護士:
本当は、従業員が全員解雇される日の「1998年3月31日」までにやりたかったんです。この日は「山一証券が消滅する日」で、最後まで残っていた山一の約40の支店が閉鎖され、看板が外されました。もちろんその前に、どんどん辞めていきましたが、全社員7500人のうち、まだ半分以上の方が在籍していました。その人たちの「最後の日」が3月31日だったんです。
とにかく3月31日までに完成させて、公表して記者会見をやるというのが当初の予定でしたが、やはり間に合わず、去っていく社員に合わせる顔がないと思いました。
最終的に2週間遅れての公表となりましたが、内容を読めば社員もわかってくれるだろうと、自分たちを納得させました。
何しろ時間がかかったんです。社員の委員たちがヒアリングして事実など材料を集め、それを受けて、私が客観証拠や他の証言との整合性などから「信用できる証言かどうか」を評価して、報告書に落とし込んでいく作業です。そして4月に入った頃からは、連日、私が書いた報告書案の「読み合わせ」を繰り返しました。
実名で記載された山一経営陣や、大蔵省からの反論も予想されましたから、一つの間違いも許されませんでした。全員で全文の読み合わせをしながら一字一句、確認と訂正をしていきました。大体お昼くらいから始めて、終わるのが、12時間後です。それを6回繰り返しました。ここはこう書き足そうとか、ここはちょっと弱いから確認のために再ヒアリングをやろうとか、あくまで揺るぎない事実(ファクト)に基づく報告書にしようと、全員で練り上げていきました。
そして、公表2日前の4月14日、取締役会で承認を得るために、「調査報告書」を2時間半かけて全文朗読しました。内容にはほとんど文句はつけられませんでしたが、予想どおり、強く抵抗されました。
「社内調査委員会だから社長と取締役に報告すれば足りる。公表すべきでない」
「前例がない」
「公表すると訴訟を誘発する」
最終的には公表前日の4月15日に議決されましたが、あきれたことに、この段階でもまだ「公表」に異論を挟む役員がいたことも事実です。
陰の支援者が新聞社にリーク 公表されなかったもう一つの“報告書”
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国広弁護士の仕事は「社内調査報告書」で終わらず、もう一つの「法的責任判定委員会」にも関わることになった。
この委員会は、経営陣の法的責任、損害賠償を検証するもので、社員は入らず、山一から独立した弁護士と公認会計士のみで構成された。
調査の結果、「旧経営陣10人に責任がある」「粉飾決算を見逃した監査法人にも責任がある」と結論づけた。つまり「A級戦犯」を認定したものだった。
調査の結果、法的責任は行平前会長や三木前社長だけでなく、他の役員についても実名で指摘した。
しかし、これは山一側に猛反発を受けて、公表はされなかったのだ。国広は悔しい思いを胸にしまい込んだ。
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ーーもう一つの「法的責任判定委員会の報告書」は公表されませんでした。しかし、朝日新聞が独自に入手して記事にしました。そのときに国広さんが「情報をリークした」と疑われたとお聞きしましたが。
国広弁護士:
「法的責任判定」の報告書を提出したところ、山一証券側から「出過ぎたことはするな」という主旨のことを言われました。名指しで10人アウト、監査法人もアウトという結果の報告書を出し、しかもその公表を求めたことに対して、山一は「そんなことまで頼んでいない」って言い始め、顧問弁護士が前面に出てきて我々を押さえ込もうとしてきたわけです。
そうしたら、朝日新聞が独自に入手して内容をスクープしました。私は公表すべきだと強く主張していましたから、当然真っ先に疑われました。
顧問弁護士からも強く責められました。世間に公表すべきだと強く言っていたのが私ですから。公表をずっと反対され続けてきた私がブチキレて、朝日に出したんだろうと思われたわけです。
辛かったのは、「売名弁護士」と言われたことです。「倒産した会社を踏み台にして、売名をしようとしている駆け出しの弁護士がいるとすれば問題だ」という言い方をされたんです。私のことを指しているのは明らかで、しかも目の前で言われました。ひどい話です。
たしか、朝日新聞の記事が出た直後だったと思います。とにかく全新聞社に送りつけてやろうかと真剣に考えてましたから、確かに動機はあったんです。もちろんやってませんが。
社長の野澤さんがノーという以上は、公表は無理でした。
今は「第三者委員会」が自ら公表できるような制度にしたんですけど、当時はできなかったんです。
10年後に、実は朝日新聞にリークしていたのは、弁護士や公認会計士ではなくて、当時、山一の清算業務の責任者で、「社内調査委員会」や「法的責任判定委員会」を陰で支援してくれて「しんがり」の中にも登場する菊野晋治さんであることがわかりました。
2007年秋に「調査チーム」の飲み会に誘われたときのことです。その席で菊野さんが日本酒の徳利を持って「一杯飲めや」と私の前に座って、こう言ったのです。
「10年たったし、もう言うてもいいやろう…クニさん(国広)が疑われたじゃろう?あれを出したのはワシなんじゃ。クニさんが疑われるのは分かっとった。
でもあの報告書を闇に葬ってはいかん、山一が最後にまた隠ぺいで恥をさらしてはいかんと思った。じゃから、ワシが出してクニさんにひっかぶせたんじゃ。すまんかった」
わたしがポカンとしていると「あの状況じゃったら、みんなクニさんを疑って、ワシを疑うもんは一人もおらんかった。あれを出したのは、ワシにとって、“山一最後のおつとめ”だったんじゃ!」と朝日にリークしたことを打ち明けたのです。
さらに菊野さんは、朝日新聞がスクープした朝、その新聞を持って野澤社長の部屋に押しかけて「情報管理がなっとらん!」と怒鳴りつけたそうです。
「じゃから、ワシを疑うもんは一人もおらんかった」と笑いながら私に「告白」してくれました。私もつられて大笑いです。
ーー山一証券は経営破たんを招いた「約2600億円」の損失隠しで、行平前会長や三木前社長ら3人が有罪判決を受けましたが、「調査報告書」では、同社の歴史、企業体質、営業手法まで遡って検証しています。そこの意義については、どうお考えでしょうか。
国広弁護士:
捜査機関が立件する刑事裁判では、あくまで何年何月何日に、刑罰法規で規定されている行為を実行したか、ということだけが、立証の主題になります。
しかし、なぜそうなったのか、組織風土的に何が問題なのか、歴史的経緯はどうなのかは立証の主題ではない。
刑事事件では不祥事の「全体像」は見えないのです。私たち「調査委員会」が書いたのは法的な犯罪の成否を判断するものではない。経営陣が、どういう風にごまかして、危機を先送りしたかという「全体像」を描いた記録なんです。
そういう意味で「調査報告書」は、山一証券がなぜ隠蔽を続け、どのように転落して幕が引かれたのか、全体像が見える「ルポルタージュ」だったと思います。
山一の件はともかく、企業不祥事が起こった場合、調査委員会で、企業が自浄作用を果たせれば、わざわざ東京地検特捜部が捜査に着手したり、東証が上場廃止したり、証券取引等監視委員会(SESC)が入ってくる必要はないという場合もあると思います。
むろん、看過しがたい悪質な犯罪行為は別ですが、進化した資本主義社会は、企業に「自律能力」があることを前提としています。
何でも国家権力が介入するのは、自由な資本主義社会とは言えず、優れた「調査報告書」が公表されれば、当局は「自浄作用」を認めて「行政処分」や「刑事処分」までは不要との判断材料になり得ると思います。これが第三者委員会の「当局調査代替機能」と呼ばれる公益性なんです。
ーーもう一つの「法的責任判定委員会」の報告書ですが、公表できなかった一番の理由は、どこにあったと思われますか。
国広弁護士:
当時は「第三者委員会」という言葉も存在しない中で、「判定委員会の依頼者はだれなのか」という本質的な問題が横たわっていました。判定委員会は山一証券の依頼、つまり「野澤社長の依頼」を受けているのであり、野澤社長に対して忠実義務があると。ですから、野澤さんが公表をノー言っている以上、何もできないと言われました。
一方でわたしは、依頼者は野澤社長ではなく、「職を失った社員、株主、顧客、取引先すべてのステークホルダー」であると主張しました。すでに公表していた「社内調査報告書」の中でも、ステークホルダーへの公表を約束しており、「判定委員会」の結果も当然、これに含まれると考えました。そもそも野澤社長は、「判定委員会」との形式上の契約者にすぎないわけで、ステークホルダーに対して公表する責任と権限を持つのは「法的責任判定委員会」であるというのが私のロジックでした。
しかし、「判定委員会」の他の弁護士らは、「国広さんの言うことは理念としてはわかるが、今の法律解釈論としては無理があり、山一側が自発的に公表するよう説得するしかない」という意見が多数でした。
結果的に朝日新聞はスクープしましたが、会社が正式に調査結果を公表することはなく封印され、私も諦めざるを得ませんでした。
このときの悔しい体験があって、社長ではなく、ステークホルダーが依頼者であることを明確に定義付けて、経営陣に不利なことも書けるような独立性が保証された第三者委員会のあり方を、はっきり示すべきだと強く感じました。
ーー山一証券の「社内調査委員会」のあと、企業の不祥事のたびに「第三者委員会」が設置されるようになりましたが、経営者の「免罪符」「弁解」に利用されるケースも後を絶たず、批判もありました。これはどう受け止められましたか。
国広弁護士:
山一証券の「社内調査委員会」が原型となって、企業不祥事のたびに「第三者委員会」が設置されましたが、そうなると玉石混交で、その体をなしていないケースも出てきました。
社長が依頼し、立派な肩書の「先生」たちを調査委員に並べた、その場しのぎのお手盛りの「不良第三者委員会」の事例が続発しました。
こうなると「第三者委員会」自体の信用を損ねることになりかねません。そこで有志の弁護士が集まって、本来の姿に戻そうと、2011年に日弁連の「第三者委員会ガイドライン」を作ったんです。そこにはこう明記しました。
「第三者委員会はすべてのステークホルダーのために調査を実施し、その結果をステークホルダーに公表することで、最終的には企業の信頼と持続可能性を回復することを目的とする」
「第三者委員会は、調査により判明した事実とその評価を、企業の経営陣に不利となる場合であっても、調査報告書に記載する」
これは山一証券の「法的判定委員会」でねじ伏せられた経験があったからです。
「企業は社長のもちもの」ではないんです。「第三者委員会」にかかる費用は、社長のポケットマネーではなく、株主のお金であり、従業員が一生懸命働いたお金であり、顧客が商品を買ってくれたお金なんです。ですから、社長が意のままの報告書を求めるのは筋違いです。しかし、形式上、「第三者委員会」は社長から委任されるため、報告書は、社長の意思に反するものにはなり得ないというのがそれまでの弁護士会の常識でした。
しかし、ガイドラインをつくったことによって、委任契約の際に「日弁連のガイドラインに準拠する」と書けば、必然的に経営陣にとって不利な事実や、組織的要因も調査できることになります。つまり、ガイドラインによって「説明責任」と「公表」がワンセットの経営陣に対する「盾」になったと思うんです。
社長が「公表しません」と言っても「第三者委員会」が独自に公表できるわけです。最低限こうした要件を満たした仕組みがないと「第三者委員会」を名乗ってはいけませんということです。
不祥事調査は、「外科手術」をやって悪い部分を摘出して、健康体に戻すためのプロセスですから、その手術を自分でこっそりやったのでは駄目で、中立、公平な第三者による「公開外科手術」が必要なんです。
「名ばかり第三者委員会」を評価する委員会立ち上げ
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2015年に発覚した「東芝」の不正会計問題。歴代3社長の引責辞任にまで発展したが、「第三者委員会」が、会社側の意向を受けて、監査法人の問題や原発子会社の会計処理を調査対象から外すなど、問題を隠蔽していると批判を受けた。
また「東京電力」の「福島第1原子力発電所事故」の対応については、「第三者委員会」の調査が不十分だと批判された。また東電が「メルトダウン(炉心融解)」を認めなかった背景には、「首相官邸からの指示」があったとする調査結果についても、会社側に有利な事実認定ではないかと指摘された。
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ーー日弁連の「第三者委員会ガイドライン」が策定されたあとも、経営者の責任回避のための、「名ばかり第三者委員会」が散見されています。調査結果に対する客観的な評価というのは可能なのでしょうか。
国広弁護士:
「ガイドライン」でもう一つ伝えたいのは、「第三者委員会」が公表する「調査報告書」は「公益的なもの」「公共財である」ということです。そもそも委員会の設置が必要な不祥事は、上場企業グループが起こす場合が多く、企業自体が「パブリックな存在」なのです。
これらの企業の不祥事は、市場で病理現象が起きているのと同じです。第三者委員会の第一義的目的は、企業自体の信頼回復ですが、その結果、社会や投資家からの市場に対する信頼感も回復されなければなりません。
ただ、第三者委員会によっては「日弁連のガイドラインに準拠しました」といいつつ、実質は第三者性のない「お手盛り」の第三者委員会も出てきます。役員に気を使い、原因究明も事実調査も甘い内容です。
そこで、2014年に「第三者委員会」の調査報告書の内容を評価するという「第三者委員会報告書格付け委員会」を立ち上げました。
これは弁護士やジャーナリスト、大学教授らで企業の第三者委員会の報告書を精査して、A、B、C、Dの4段階にランク付けするものです。評価に値しない報告書には「F」とします。
たとえば、私は上記の「東芝」の問題で「F評価」を付けました。いわゆる評価点の外側、論外です。その一因は依頼者側の「東芝」が「調査範囲を限定」していたことです。
株主、投資家たちが最も知りたかったウエスチングハウスの件、つまり「原子力部門の問題」が調査から欠落していたのです。これは第三者委員会の本質に反する行為だと思います。
さらに原因について「利益至上主義」「トップ主導の不正である」と書かれているのに、それがいつから、何をきっかけに、また何が動機なのか、全く調査がなされていませんでした。また「社外取締役」の機能不全などコーポレートガバナンスの問題にノータッチだったことや、第三者委員の選任プロセスの問題など、残念な内容でした。
もし、山一の「社内調査委員会」も、経営陣の息のかかったお抱えの調査委員会だったとしたら、「われわれは、大蔵省との関係の調査は依頼されていません」と忖度して大蔵省のことは書かなかったかもしれません。
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山一証券の「社内調査報告書」は、不祥事を起こした企業の「第三者委員会」のモデルとなり、日弁連の「第三者委員会ガイドライン」につながっていった。
「報告書」はあれから27年経った今、読み返しても、決して色あせていない存在感を放っている。それは平成から令和になっても、企業の中で同じようなことが起きているからだろうか。
これまで暴力団排除、山一証券、長銀など多くの修羅場をくぐってきた国広の信条は一貫して「火中の栗を拾う」ことである。しかし、それは自分だけではできないと言う。
「みんなで知恵を出し合うのが私の仕事のスタイル、私が誰かに何かを教えるのではなく、私もいろんな人から教わることがあり、共同作業だと思っています。なので、先生と呼ばれるのが嫌なんです」
そして最後にこう念押しされた。
「この山一調査報告書の原動力は嘉本さんたち、山一の社員であり、私はあくまで(当事者ではないのに)委員長の嘉本さんの侠気にシンクロした『助っ人』に過ぎません。あるいは、山一社員の無念の思いが乗り移った『恐山のイタコ』みたいなものかもしれません」
それは、危機管理の第一人者となった今でも、決して変わらない、原点を忘れない“マチベン”の言葉であった。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
■参考文献
山一證券「社内調査報告書」社内調査委員会、1998年
国広正「修羅場の経営責任」文春新書、2011
本林徹 編「新時代を切り拓く弁護士」、2016
清武英利「しんがり 山一證券最後の12人」講談社、2015年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
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