SDGs達成期限の2030年に向けた新たな価値観、生き方を語る今回の賢者は登山家の野口健氏。1999年、3度目の挑戦でエベレスト登頂に成功。当時の世界最年少記録となる25歳で、7大陸の最高峰を制覇した。野口氏の活動は登山家の枠を超え、被災地の復興支援やエベレストの清掃登山など、国や地域を問わず地球規模の社会貢献にも広がっている。しかし時には、その活動が批判のまとになることも。批判を浴びてなお、国内外で支援を続ける理由とは?どんな課題にも向き合う信念の原点には父の教えがあった。2030年に向けた新たな視点、生き方のヒントを聞く。

“違いがわかる男”を経て山岳ガイド、シェルパの遺児支援

――賢者の方には「わたしのStyle2030」と題し、話していただくテーマをSDGs17の項目の中から選んでいただいています。野口さん、まずは何番でしょうか?

野口健氏:
最後の17番「パートナーシップで目標を達成しよう」です。

――この実現に向けた提言をお願いします。

野口健氏:
「世の中のB面を見る」っていうことです。若い人はレコードを知らないんでピンとこないと思うけど、表のA面と裏のB面みたいな、そういう意味でBを見るということです。

――B面を意識したのはどういう理由からでしょうか。

野口健氏:
親父の影響が強いと思うんです。中東専門の外交官で。子どものころからサウジアラビア、エジプト、イエメン、チュニジアとか転々としたんです。主に親父はODA(政府開発援助)を専門に担当していたので、いろんな現場に僕を連れて行くんです。印象的だったのが、小学校のときにエジプトに行って、ピラミッドに行くわけです。観光地なので観光バスがザーッとあって、最高級ホテルがあって、それはもう派手なんです。その帰りにちょっと寄って行こうと言って親父が運転して、そこから30~40分かな、スラム街があるんです。ガラッと空気が変わるわけです。それが、僕が子どもの頃に初めて強烈に体験した空気が変わるということ。

いつも帰りに(父が)「どうしたらいいと思うか」って聞くんです。僕は当時子どもなんで「わかんない」と。「何かあるだろう考えが。言え」って言うんで、一生懸命考えるんです。そういうのがずっと続いていて、あるときに(父が)「いいか、今日お前が見たのはB面だ」と言うんですね。ぱっと行って誰しもが見るものはA面だと。世の中のテーマは得てしてB面にあると。B面を見ろっていうことを言われたんです。それが大きかったんですよね。

――なぜお父様は野口さんを連れて行こうとしたんでしょう。

野口健氏:
教育をしてやろうっていうのはそういうタイプじゃないんで。自分の子どもと行って一緒に考えたかったんだと思うんですよね。僕が高校生のころに「僕の意見って意味あるの?素人だよ」って言うと、「意外と素人がぽっと言ったところから、あっと思うんだ」って言うんです。男同士ですから、2人で見て2人で一緒に考えるっていうのが、ひょっとしたら楽しかったのかもしれません。

外交官の父の影響で世の中の影に光を当てるようになったという野口氏。最初に目を向けたのはエベレスト登頂に欠かせない山岳ガイド、シェルパの存在だった。シェルパは登山隊の荷物を運び、ルートを整備して案内するなど、過酷な環境下で重要な役割を担っている。しかし、命がけの仕事に見合う対価や補償もなく、貧しい生活を強いられていた。

野口健氏:
学生の頃、毎年ヒマラヤに行くわけですけど、毎年のようにシェルパが亡くなっていく。登山隊が亡くなると話題になるんですが、一緒に行ったシェルパが亡くなっても、ほとんど話題にならないんです。そこをあれ?って思うようになって。

あるとき日本隊が全滅した大きな遭難があったんです。日本のテレビは日本隊全滅っていうことを大々的にやるんです。雪崩で全滅したわけですけど、日本人だけがいるということはありえないんです。登山隊ってシェルパとセットなんです。どのチャンネルもシェルパが出てこないんです。その時に僕の知り合いのシェルパからFAXが入ってきて、あの隊には俺の弟がいる。シェルパが10何人いる。誰1人降りてこないと。2日後にネパールに飛んでヘリで遭難現場に入ったんです。シェルパの遺体がずらっと並んでいるんですよ。日本のメディアは、日本人の遺族にはカメラが向くんですけど、シェルパの死はどこも出さなかったんです。

そこからしばらく残って、いろんなシェルパの村を歩いて話を聞いていったら、いっぱい毎年亡くなっていると。当時はあまり保証もないし、シェルパの命が軽いという扱いがあって。登山家はベースキャンプで休んで、シェルパは上のテントに行かせるとかいうのがざらで、そういう扱いによって起きた事故も多かったんです。

これはヒマラヤのB面だと思いまして、親父にシェルパの人権問題をやってみたいって言ったらすごく喜びまして、「それは絶対やったほうがいい」と。むしろ登山家が声を上げないと、誰も変えられない部分ですよね。登山家たちはシェルパの死っていうのは基本的に表に出したくない。この問題はある意味タブー中のタブーなんです。ですから、そこをやる価値があるって言ってね。

エベレスト登頂から約3年。野口氏は亡くなったシェルパの子どもたちを教育面で支援するシェルパ基金を設立した。その実現に向けては、野口氏ならではの計算があったという。

――基金を作るということに対して、当時反発はあったんですか。

野口健氏:
確かに反発はすごかったんですよ。山の社会ってそんなに広くないので。たくさんのシェルパが日本隊でも亡くなっていますから。そういう問題を表に出すということですから、山岳会の中ではいろんな意見があって厳しかったんです。だから、いつどのタイミングでそのカードを切るかっていうのが大事で、思いついたときにぽっと出すと潰されるなっていうのはありますよね。

だいぶ前ですけど、1年間だけ“違いがわかる男”になったんですよ。コマーシャルで意外と知名度が上がるわけじゃないですか。そのコマーシャルが終わったときに、シェルパ基金のカードを切ったんです。要するに反対されにくいようにするっていうことなんです。

富士山問題で思わぬ反発も 「ヒマラヤに逃げてよかった」

野口氏にはもうひとつ、エベレスト挑戦で光を当てた影があった。環境問題だ。エベレストで出会った他国の登山家に言われた衝撃の一言が今も胸に刻まれているという。

野口健氏:
初めてエベレストに行って、本当にゴミが多かったんです。外国人の登山家が僕を指さして、「お前ら日本人のゴミが特に多い」と。富士山は世界で最も汚い山だと聞いているという話になって、エベレストを富士山のように汚すのかみたいなことを言われて悔しいなと思いまして。僕はそれまで雪に覆われた冬しか登ったことがない。帰ってきて初めて夏の富士山に行ったら、5合目から上はポイ捨てゴミが多いし、麓に行ったら不法投棄は山のように。そのときに、遠くから見たら美しい富士山はA面だなと思ったんです。

入り込んで見たときの、不法投棄の産業廃棄物はすごいですよ。タイヤ1800本が1か所にあったりとか、注射器が僕の背の倍ぐらい山積みされていたりとか。それを見たときに、これは富士山のB面だと。現場に行くと、自分の目で見るじゃないですか。目で見るっていうのは大きくて。今インターネットでいろんな情報が簡単に集まって、データが頭の中に入ると何か知ったような気になるじゃないですか。でも、樹海に行って注射器が山積みされているのを見たときに、頭の中にあった真っ平らな知識っていうのが膨らんできて。匂いもあるじゃないですか。こんなことが起きているっていうことを本当の意味で強烈に知るわけです。

そうすると、現場で何ができるんだって、何かひとつを探すんですね。その何かひとつっていうところで、気持ちの中で背負っていくんだと思うんです。現場に行ってみちゃって、知っちゃって、背負っちゃって、気づいたらゴミ拾いっていう感じです。

野口健氏は登山家としてだけにとどまらず、世の中の影に光を当て、社会課題解決に挑み続けてきた。しかし、富士山に不法投棄されたゴミと向き合ったとき、心が折れそうな瞬間もあったという。

野口健氏:
富士山の清掃を始めたときに、僕はてっきり地元の人が歓迎してくれると思っていたんです。そうしたら、よそ者が好き勝手言うんじゃないみたいな批判の声の方が多いんです。それで疲れたんです。なんで一生懸命ゴミを拾おうと思って、こんなに言われるんだろうって。疲れたときは、やっぱり逃げるんですね。僕はどこに逃げるかっていうとヒマラヤに逃げるんです。日本にいるときって富士山の問題でワーッと言われるじゃないですか。だんだん視野が狭くなってくるんですよ。追い詰められていくんですけど、ポンっとヒマラヤに行くと、富士山を遠くに感じるんです。

活動している人間って自分が正しいと思っているから活動するわけじゃないですか。これが、次のステップになると、自分が正しいと思っていることはみんな同じように正しいと思っているんだと思い込むんですよ。何でみんな僕のことをああだこうだ言うの?ってなるんです。ただ、ヒマラヤに行って、あれ?って思って。自分の考え方=社会の考え方っていうのに初めてクエスチョンがついて。

富士山には麓から山頂までいろんな人が関わっているんです。立場が異なれば、捉え方もそれぞれだと思ったときに、自分の考え方=社会じゃないと。僕はいろんな世の中の考え方の中のひとつだから、みんなが言ってくるんだと思ったとき、スーっと肩の力が抜けたんです。例えば環境問題という流れだけで何か仕組みができたら、観光業とか生活ができなくなる人がいるかもしれない。となると、彼らは当然体を張って反対してくるわけです。ですから、富士山は環境も大事だけど、観光の山でもある。環境と観光のバランスだよねとか。いろいろ言われて逃亡してよかったです。逃亡しなかったらもう完全に行き詰まって、途中で投げ出したかもしれないです。

――ヒマラヤから戻ってきて、プロセスや行動が変わったんですか。

野口健氏:
例えば、最初は山小屋の方々と、意外と難しかったんで、山小屋の方に会いに行って。一升瓶を持って。酒を飲むとちょっと心がほぐれるんで。コミュニケーションですよね、どうやって解決していこうかみたいな。当時は富士山には白い川があるって言われていて、トイレを全部そのまま流したんです。トイレから流れて紙が残って、それがすごい量だったんです。

それを僕は問題提起したんです。その頃にバイオトイレっていうのが誕生して、山小屋さんに「例えばバイオトイレはどうかな」とか。お金がかかるんですよ。当時の環境大臣にもその話をして、環境省から静岡、山梨県にも声をかけてもらって、補助金も出してもらって、最初にそのコストを全部出すのは嫌だって言っていた山小屋さんも途中からすごく払ってくれて、みんなでお金を払って環境配慮型トイレに全て変わりました。富士山から白い川はなくなりました。

――B面を見るのは大変だと感じます。

野口健氏:
どうでしょうね。娘が小さいときに背負って富士山のゴミとか拾っていたんです。一緒に休みの日に散歩に行くじゃないですか。娘は背が低いんで、ベンチの下とか垣根の中の空き缶とかを見つけるんです。その日は清掃日じゃないんですよ。親子での散歩なんです。「パパ、ゴミ」って言うから、面倒くさいと思いながら、本人も拾うし僕ももちろんですけど。いつも歩いているところを目線をちょっと変えるだけで発見があるんだなと思ったんです。ちょっと角度を変えるだけで見えてくる世界があるんです。それもある意味B面ですよね。

――あまり構えなくても、ちょっと意識を変えてみるとか、姿勢を変えてみるというのは大事なことですね。

野口健氏:
物理的な目線もあれば、思考の中の目線を変えていくっていう。

(BS-TBS「Style2030賢者が映す未来」2024年5月19日放送より)

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