どうして地球温暖化の影響で将来、十数億人に100年に1度の洪水のリスクがあるなどと言えるのか。試算が可能になったのは、実は、日本人研究者らのおかげだ。 30年ほど前、世界各国が温暖化対策を議論するとき、気候の仕組みを表す模式図には「川がなかった」。 東京大学の教授、沖大幹さん(59)らがシミュレーションに川を加えたことで状況が変わった。今や、温暖化の影響として洪水や干ばつのリスクを計算するのは当たり前だ。 沖さんは3月下旬、記者会見で静かに語った。「僕らは常識をつくった。名誉だと思っています」

ストックホルム水大賞に選ばれたことを受けて会見した沖大幹さん=3月、東京大で

沖大幹(おき・たいかん)さん
 1964年東京生まれ。2006年に東京大の生産技術研究所教授となった。
 水の循環などを扱う「水文学(すいもんがく)」が専門。天文学が「天(宇宙)」を対象とするように、水文学は「水にまつわる森羅万象」を対象とするという。
 地球規模の水循環研究の功績に優れ、2024年には「水のノーベル賞」と呼ばれるストックホルム水大賞に選ばれた。学問や芸術分野で功績を残した人に贈られる紫綬褒章も受章した。

◆温暖化が進めば水は…

「洪水や干ばつに関連する急性の食料不安や栄養不良が、アフリカや中南米で増大している」 温暖化対策の国際的な議論の土台になる、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の評価報告書。2021年~23年に発表された最新の第6次報告書には、川や人間の水利用が描かれ、水が循環する模式図が載っており、気候変動による水のリスクが人々にどう影響するのかも書かれている。

IPCC第6次評価報告書に載った水の流れの模式図。人間による水の利用や川の流れも盛り込まれている

将来予測では、2100年までに温暖化による気温の上昇幅を国際目標である1.5℃に留める場合と、2℃や3℃になる場合とを比べて、洪水の損害は「2℃で1.4~2倍になり、3℃で2.5~3.9倍になる」と指摘した。
(洪水などの記述は「第2作業部会の報告 『気候変動 -影響・適応・脆弱性』」の環境省確定訳より) 当然のようにも感じられる気候変動と水の流れのリスク評価。しかしー。

◆「川がなかった」モデルを変えた

実は、今から34年前の1990年、IPCCの第1次評価報告書に載った気候システムの模式図には、川が描かれていなかった。雨が降ったり、蒸発したりという水の動きは入っていたが、地上に降った水の流れは見当たらない。

IPCC第1次評価報告書に載った模式図。大気と海などとの水の行き来はあるが、川の流れが描かれておらず、水が循環していない

地球が温暖化すれば、一度に降る雨の量が増えて川からあふれて洪水が起きるなど、水の循環が変わる。それなのに、洪水や干ばつがどの程度増えるのかといった影響を具体的に推測することは困難だった。 打開したのが、沖大幹さんなどによる水が循環するモデルの研究だった。沖さんは「気候変動のデータを身近な水災害に翻訳することを、私たちができるようにした」と振り返る。 沖さんたちは第1次評価報告書から8年後の1998年、河川を組み込んだモデルを示した。2006年にはサイエンス誌に「Global Hydrological Cycles and World Water Resources」を発表し、農業や工業などの人間の営みも含む地球規模の水循環の模式図を載せた。川も含めたリスク評価が国際的に広がるきっかけになり、水循環がどうなるのかを考えるモデルは発展していった。 2023年には、「100年に1度という規模の洪水の場合、全世界で約18.6億人に潜在的な洪水リスクがある可能性」を示す将来の洪水ハザードマップも発表された。 沖さんは「研究も分かってしまえば当たり前。なので20~30年経つと『そんな研究、当たり前じゃないですか』と言われるんですけど、それは、つまり常識をつくったんですね」と語った。

◆ジャンケンで負けて、水文学へ

こうした世界的な貢献が評価され、沖さんはストックホルム水大賞、通称「水のノーベル賞」に輝いた。日本人では外国籍取得者を含めて3人目の栄誉だ。 ただ、沖さんは最初から今の専門分野「水文学(すいもんがく)」を志していたわけではない。「ジャンケンで負けて、水の分野を選んで」と冗談めかす。 ジャンケンとは東京大学・土木工学科の学生時代、所属する研究室を選ぶときの話だ。「人間行動のニュートンの法則を見つけるんだ」と掲げ、人の行動を踏まえた交通の計画論を考えていた研究室を最初に志望した。しかし、希望者が1人多かったためにジャンケンになり、沖さんが負けてしまった。 「セカンドベスト」として選んだのが、水の研究室だった。 決め手は、河川工事事務所でのインターンで洪水のシミュレーションを経験したことだった。同じ雨が降ったとき、自然な土地のままの場合と都市化した場合とで洪水がどう変わるのかという分析だ。「それが非常に面白かった」。 1986年の春、卒業論文のテーマに選んだのも水害関連だった。1982年に起きた長崎豪雨の被害の深刻さがきっかけになった。「水害を減らすにしても、渇水を減らすにしても雨の降り方を調べる必要があるんじゃないか」と詳しく文献を読み進め、のめり込んでいった。 1986年8月には、利根川の支川で洪水が起きた。「当時の先生の車で見に行ったら、堤防が崩れている現場までたどり着けた」。研究の意義を肌で感じた瞬間だった。

東海豪雨によって水浸しになった住宅街=2000年9月12日、名古屋市西区で(本社ヘリ「おおづる」から)

「どんな被害があって、何が困って、どうすればよかったのか。被害を受ける人間社会のあり方もちゃんと見よう」。行けるときには、豪雨の被災地を直に見ることを心掛けた。2000年の東海豪雨でも、足を運んだ。 こうした積み重ねが、研究を続けるモチベーションにつながった。温暖化のリスクや対策を考え続けるのも「私たちの命や楽しい日常のため」。水の循環モデルという基礎的な研究を専門としながら「人の幸せ」を大切にする姿勢を貫いている。

◆「役に立たない」悩み乗り越え

基礎的な研究と社会への応用は両立しないかのような見方には異を唱える。 「学術的な価値と社会貢献、つまり基礎と応用は分かれているという学生さんが多いけれど、『役に立つし、学術的にも先端的だ』というのはいっぱいある。それを探さなくちゃいけない」と力を込める。 そんな沖さん自身も、悩んだ時期があった。沖さんが所属した東大の生産技術研究所は工学を中心とし、「ものづくりの先生たちに囲まれていた」。 30代のころ、恩師に「(自分は)すぐに役に立たないことをやっていて、工学系でいいんでしょうか?」と尋ねた。答えは「いずれ役に立つときがくる」だった。

電柱が傾き泥の残る道を、一輪車で廃棄物を運ぶ人ら。この被害をもたらした台風19号は温暖化によって降水量が増えていたと分析された=2019年10月15日、長野市で

当時は半信半疑だった。けれど、「そんなものかな」と研究を続けた。10年以上続けたころ、社会が変わった。地球温暖化による洪水などのリスクが高まり、気候変動や水の問題が世界的に注目されるようになった。沖さんの研究は今、人々が直面する災害のリスクを把握し、命を守るために役立っている。

◆8月に記念講演 語りたいことは

知的な探求の話題では、目がキラキラと輝く。「人類がダムをつくったことで、全ての海がたぶん4~5センチ下がっている。面白いでしょう」。 日本での生活で水を当たり前に使えるのは「インフラをつくり、維持管理した先人たちの苦労のおかげ」とも説く。ストックホルム水大賞の受賞者として「水問題の大切さを語るのも役目」と話す。 2024年8月、沖さんはスウェーデンで開かれるストックホルム水大賞の授賞式に臨み、記念講演に立つ。 沖さんは「将来は変えられる」と講演するつもりだという。

花束を手に笑顔を見せる沖大幹さん=2024年3月、東京大で

地球温暖化は止まらず、産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑えるという国際目標の達成は、危ぶまれている。気候変動がこのまま進めば、極端な暑さや洪水、干ばつといった自然の脅威に加え、食料危機や難民、紛争の増加などのリスクが高まっていく。 それでも、沖さんは「世の中、30年あれば変わるし、変えられる」と語る。「(社会の変化に)自分自身が少しでも貢献できたと思えたら素晴らしいということは伝えたい」 何を変えるべきかという記者からの問いには、「常識を変えるんだと思います」と応じた。 こまめに明かりを消しましょう、といった啓発によって人々の行動を変えていくのは難しい。けれど、昔はいた飛行機でたばこを吸う人を今は見なくなったように、常識が変われば人々の行動は変わる。 「少しでもいい方向に『当たり前』を増やしていく」。それが、持続可能な社会の実現には必要だと考えている。(デジタル編集部・福岡範行=執筆、吉田通夫=構成) 

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